2007-01-01から1ヶ月間の記事一覧
「有田町史」商業編Ⅰにあげられている、嘉永2年の有田、伊万里の陶器商人の為替金拝借制度の要領は下記のとおり。佐賀藩が専売制度を始めたことに伴うもの。 1 江戸や大坂で登らせるのに不向きの陶器を調印元そのほかの者が価格を評定し、その70パーセン…
佐賀城鯱の門は少なくとも寛政の頃までは、二の丸の門であった。現在の本丸の門として移築された時期ははっきりしないという。鯱は1.7メートル、重さ20キロ、長瀬町の谷口清左衛門の作。 万延元年に鍋島直正はオランダから購入した電流丸に乗船し、兵庫…
木崎盛標「肥前州産物図考」は「日本庶民生活史料集成」(三一書房)の第10巻に所収されている。 現在のジョイフルタウン鳥栖は1986年に閉鎖された専売公社の鳥栖工場の跡地だが、これは、1914年に建設され、1949年に閉鎖された片倉製糸の跡地…
「多久市史」第2巻には、少年期の志田林三郎の才能を示す史料が紹介されている。中目付から頭目付への上申である。(「御屋形日記」万延元年9月7日条) 「 孫六殿(多久家家老 多久造酒)被官 別府町 亡志田紋太郎子 當申八(ママ)歳 志田林三郎 右之者…
首里の酒「咲元」を飲むはじめる。泡盛を飲むと気分がくつろぐ。 佐賀藩の科人帳には、「戸せき」という言葉が出てくる。これは、町人百姓に対する刑罰である「戸〆」にあたると考えられる。佐賀では「しめる」を「せく」という。 幕末の三都の風俗を記した、…
弘化4年に脱稿した深江順房の著作「丹邱邑誌」に高野寺の記述が下記のとおりある。 「普明山高野寺、志久村高野谷ニアリ、真言宗、武雄邑黒髪山西光法寺大智院末寺、(中略)旧ハ今ノ寺ヨリ南谷ニアリ、今ノ処ハ奥院ト云、谷口ヲ綱ノ下ト云、古代ハ毎年正月…
「基肄養父実記」(鳥栖市史資料編第二集)に、田代領代官賀島兵介が、大酒を飲むと出費多く、病気などで身を破り、煙草は大きい害はないが、損あって益がないため、しかしながら、これらを禁じることはできないので、今後は大酒にならぬよう、煙草は吸わな…
堤主禮「雨中の伽」(『随筆百花苑』第15巻 中央公論社 1981年)は、幕末の佐賀の芸能についての文章である。 佐賀藩士の切米高に「皆白」とあるのは、赤米が入っていないことを示す。 佐賀城下町は総郭内に町人地と武家地が水路を隔てて配置された総郭…
「葉隠」聞書六に、美麗の先祖が梅崎作兵衛であり、新庄に知行があること、藩主光茂のときに加増がなされたこと、宗秀正組で御留守居組内であることが記載されている。 「虎口前」という言葉がある。「葉隠」では戦場の意味で書かれている。また、「鍋島直正公…
鳥栖市史資料編第四集「近世鳥栖商業資料」所収の「犬丸家文書 嘉永五年日記」及び「広瀬家文書 田代領生蝋座銀会所関係文書」についての言及が、校訂者である長野暹氏によって、「講座・日本技術の社会史1 農業・農産加工」(日本評論社 1983年)の中…
「成定」とは特定の田畠に何年かを限って与えられる年貢の減免のこと。城島正祥氏「佐賀藩における知行の切地と上支配・銀主支配」(「法制史研究」23 1974年)による。 相知町教育委員会「峯家文書解読書」(一)には、口絵に所収史料の一部の写真が…
青江三奈の「国際線待合室」は伊丹空港をテーマの万国博覧会にあやかったヒット曲である。歌詞の最後に「大阪空港待合室」とある。 「ちゅらさん」を見たあと、八重山の酒「白百合」を飲みはじめる。独特の風味がよい。
毛利敏彦氏「学校教育は西洋ノ丸写シ」で)(「学士会会報」836号)より孫引き。江藤新平文書から。 学校ノ儀 夫レ学ハ道芸ノ二ツナリ、道学ハ人倫ヲ論ズルモノニシテ、人々崇敬スル所及ビ身ヲ修ムル所ノ方面ヲ□定スルモノナリ、芸学ハ天文・地理・政治及…
文久元年8月に佐賀藩は、西洋医学を学んだ者のみに開業許可を与えることにした。「佐賀市史」より引用。 「西洋法の儀 治療は申すに及ばず 製薬等を始め諸事情密にこれあり候処より形の如く仰せつけ置かれ候処 宿習に泥み御趣意一貫いたしかね候通りにては決…
家永三郎「日本道徳思想史」(岩波全書 1954年 1977年改版)で論じられている葉隠。 「武士が軽々しく人の命を奪って割合に平気でいたのは、(中略)武士が戦闘によって自らの生命を軽くし敵の生命を断つことを職能としていた事情にもよる。武士が命…
支藩 小城 蓮池 鹿島 親類 久保田 白石 川久保 村田 親類同格 武雄 多久 諫早 須古 家老 横岳 神代 深堀 姉川 倉町 太田 主たる知行地は、横岳=続命院 神代=神代 深堀=深堀 姉川=坊所 倉町=千布 太田=西尾 天保11年の捕鯨の記録である「小川嶋鯨鯢合…
酒盛の様子はいかうあるべき事なり。心を付けて見るに、大方呑むばかりなり。酒といふ物は、打上がり綺麗にしてこそ酒にてあれ。気が付かねばいやしく見ゆるなり。大かた人の心入れ、たけ\/も見ゆるものなり。公界物なり。(葉隠聞書第一) 大酒にて後れを…
深江順房「丹邱邑誌」に、寛文12年に出された、鶴、雁、けり、かちがらす、鷭、青鷺、五位、尾長鳥の猟を禁じ、野雁、鷲、川獺、くま、鷹、狼は禁猟区においても見次第打ち留めてよい旨の多久領主の達の記載がある。当時の多久に鶴や鷲や熊や狼やかわうそが…
伊良部の酒「豊年」を飲みはじめる。甘い口当たりとこくのある味わいが好ましい。泡盛はうまい。 呼子の龍昌院は宝暦5年に小川島の鯨組、三代中尾甚六が鯨一頭の代金で建立したという。 天保2年に七代中尾甚六は、龍昌院に六地蔵の鯨鯢千本供養塔を建立し…
「さがの女性史」において、北川慶子氏は下記の布告、いわゆる娼妓解放令について、「その理由はおよそ女性の人としての権利を全く無視したものであった。すなわち娼妓は人としての権利も含め、すべてを楼主に金銭と引き替えに売り渡したものであるために、人…
かつての塩田港は、塩田川の付け替えにより、本流ではなくなってしまった。現在は公園化している。 大財聖堂址を示す石碑は大財1丁目、長楽寺より北にはいったところにある。付近には聖堂橋という橋もある。また、創設者の武富廉斎の名を採ったれんさい橋と…
「肥前史談」7巻4号に、昭和9年4月20日に、南茂安村土井外部落が中央畜産会から有畜農業奨励の趣旨による選奨状を全国20団体のうちの一つとして授与された旨の記事がある。「三根町史」には載っていない。これによると、土井外部落は戸数75戸、米麦…
大隈重信の墓は東京護国寺の山形有朋の墓の近くと赤松町龍泰寺にある。島義勇の生家跡は体育館。 江藤新平の墓は西田代町本行寺にある。本行寺の江藤新平の墓碑銘は副島種臣が書いている。江藤新平は最初鍋島村木角の蓮成寺に葬られた。現在の鍋島2丁目、鍋島…
平安座島は耕作に適さず、漁業に依存する島だった。与勝半島と平安座島とを結ぶ海中道路を平安座区が1961年から1966年まで単独で建設していた。ガルフ社が平安座島の隣の宮城島に進出を図ろうとしたところ、農業を主産業とする宮城島では反対運動が…
薩摩藩の侵入以降、久米村復興のため、久米村に琉球の人間や中国からの漂流民都合10姓が編入された。その中には京都から那覇に住み着いた3代目の孫自昌がいた。 太平天国の乱により南京が陥落、占領されたとき、琉球使節が福州に滞在しており、事態を琉球…
総務省統計局の家計調査http://www.stat.go.jp/data/kakei/zuhyou/rank06.xlsでは、いろいろな品目の購入金額及び購入数量のランキングが都道府県庁所在地並びに北九州市及び川崎市について調査されている。そのうち那覇市の豆腐購入数量は下から4位、購入…
夏川りみは、「涙そうそう」という言葉は沖縄の言葉なので、石垣出身の自分には意味がわからなかったとインタビューで答えている。「週刊文春」2005年12月1日号による。 高校駅伝の沖縄県大会は本部半島を周回する起伏のあるコースである。今帰仁で、…
沖縄県営鉄道の駅。糸満までずいぶん内陸を通っていくことに気づく。 那覇 古波蔵 与儀 安里 内間 城間 牧港 大謝名 真志喜 大山 北谷 桑江 平安山 野国 嘉手納 那覇 古波蔵 真玉橋 国場 一日橋 南風原 宮平 大里 与那原 那覇 古波蔵 真玉橋 国場 津嘉山 山…
斎藤用之助は、島尻郡長になる前、中頭郡長であった。明治31年に管内の小学生の「思想の程度」の如何を図るための調査を行ったことが、「琉球新報」を引用して、安良城盛昭氏「琉球・沖縄と天皇・《天皇制》」(「天皇・天皇制・百姓・沖縄」吉川弘文館 1…
「男はつらいよ寅次郎ハイビスカスの花」で寅次郎が、沖縄の強い陽射しを避けるため電信柱の細い影に身を入れるシーンがあるが、それと同じ光景を天安門広場で見たことがある。 オリオンビールの新製品「サザンスター」のコマーシャルにはMAXの新曲「ニラ…