那覇市の豆腐購入数量

総務省統計局の家計調査http://www.stat.go.jp/data/kakei/zuhyou/rank06.xlsでは、いろいろな品目の購入金額及び購入数量のランキングが都道府県庁所在地並びに北九州市及び川崎市について調査されている。そのうち那覇市の豆腐購入数量は下から4位、購入金額がダントツで1位となっている。ただし、数量の単位は丁となっている。那覇市で購入されている豆腐の大きさが顧慮されていない。那覇市で購入されている豆腐の大きさを知らないと統計の意味を間違ってしまう。統計を見るのはこわい。


かつて、中城には遊園地や小動物園があった。遊園地には観覧車があった。


林泉忠氏「「辺境東南アジア」のアイデンティティ・ポリティクス」(明石書店 2005年)では、戦後の沖縄独立の動きが1950年代に入るとともに復帰運動に代替された原因をあげている。そこでは、中国で共産党政権が誕生し、土地接収をすすめるアメリカが沖縄を恒久的に反共基地として統治すると伝えられたのに対し、日本本土では平和憲法と民主主義を享受しており、アメリカのもとでの平和な独立国を創るとの可能性が幻想と意識されたこと、明治政府の統治は言語を含む沖縄文化の日本への徹底的同化をもたらし、沖縄民族の意識が根づかせられていなかったこと、当時の沖縄では、生活問題や民政府の独裁などの方が具体的な政治問題として重要であり、復帰運動のように、組織的な大衆運動を発展するに至らなかったことがあげられている。


アルタで自家製のサーターアンダギーと称して売っていた同じものが、今は砂糖揚げ菓子と称して売っている。


昭和天皇独白録」(文藝春秋 1991年)に、昭和天皇沖縄戦について「之が最后の決戦で、これに敗れたら、無条件降伏も亦已むを得ぬ」と思ったという記述がある。「大和」の無謀な出撃も沖縄での地上戦も方法論の違いはあれ、沖縄戦を最後の戦いとし、これを戦争終結のきっかけにしようとしていたものである。 


中国への進貢船には、獅子の面、大きな目玉、三角旗、五色旗、日の丸、百足旗、北極星旗、菩薩旗、関帝王旗といった飾り付けがしてあった。どれも航海の安全のための呪術的な装飾である。