高野寺

弘化4年に脱稿した深江順房の著作「丹邱邑誌」に高野寺の記述が下記のとおりある。
「普明山高野寺、志久村高野谷ニアリ、真言宗、武雄邑黒髪山西光法寺大智院末寺、(中略)旧ハ今ノ寺ヨリ南谷ニアリ、今ノ処ハ奥院ト云、谷口ヲ綱ノ下ト云、古代ハ毎年正月二十一日注連縄ヲ張ル、重罪ノ者モ此注連縄内ニ走入レハ其罪ヲ免タリト云、高野谷ト云ハ古代ハ皆寺地ナリトイヘリ」
「丹邱邑誌」の中で、このような駆け込み寺(アジール)の性格があったと記述されているのは高野寺のみである。


多久関係の史料では、多久から佐賀に行くことを下ると表現している。深江順房の著作「丹邱邑誌」においても同様。本藩庁の所在地であり、領主の居住地である佐賀だが、多久より海抜が低いということなのだろうか?


筑後川下流の県境の飛び地。久留米市長門石、みやき町(三根町)土井外、みやき町(三根町)坂口、久留米市城島町)芦塚、久留米市城島町)浮島、大川市道海島。更に下流にある2つの三角州は、上流が佐賀市(諸富町)大中島、下流の三角州は北側が大川市大野島、南側が川副町詫間で、三角州全体の呼称はない。


現在の鳥栖市にあった2つの宿場町、瓜生野と田代(たじろ)はともに田代領に属した。現在の鳥栖駅も田代領に属する。


別当神社に祀られている者について、鳥居には、ある人は、琉球王の子であると言っているという文言が彫ってある。「千代田町誌」に、「或日琉球王子也」という文言が引用されているが、これは「或曰琉球王子也」の誤字であると考えられる。なお、「王子」とは、琉球王国では先王、現王の兄弟を指し、その所領をつけて呼ばれる特殊な呼称であり、ここでは、この意味では使われていないと思われる。


本島藤太夫の墓は伊勢町妙覚寺にある。


国枡三斗で米1俵。標準枡では三斗四升となる。 


三根郡神埼郡の境界である藤木東分の「制札橋」、同じく下藤の「制札」、曽根の「制札のもと」、坂本峠の「札の辻」、坂本峠から平野に降りたところの西石動の「セイサツノハナ」、尾崎西分の「制札橋」、下西村の「制札橋」、四十坊の「セーサツ」、早津江津の「フダンツジ」などの地名は、いずれも村の入口、郡の入口にあると、服部英雄氏「地名の歴史学」(角川書店 2000年)で指摘されている。そして、これらは外からきたよそ者に対する言葉、警告として制札が境界に立てられたことを示し、こうして地名が残されていることに、よそ者に対する村の排他性の意識が反映されていると説かれている。


「佐賀民俗学」11号に、明治37年6月に刊行の「佐賀」43号掲載の「舊藩の正月」という最後の佐賀藩鍋島直大の談話が、福岡博氏により紹介されている。これによる藩主の佐賀での年末年始の予定は下記のとおり。
大晦日  「鰤の庖丁」……ブリの刺身(武威に通ず)を藩主が手づから側の者に与える。
1日   三つ組杯による屠蘇、祝の膳。手明鎗以上との面会。
2日   煤払い。
3日   謡い。
4日   足軽との面会。
5日   家老等を集め新年の会食。
6日   自分の稽古始。
7日   神社への参詣。
8日   諸寺住職と面会。
9日   役々の出勤初め。
10日   寺参り。
11日   鎧祝(鎧餅なるものを親類等に手づから与える)。弓始馬始。
17日   藩士の稽古始。
20日   弘道館の開館式(藩士の稽古を見て、教授の講義を聴く)。