2007-02-01から1ヶ月間の記事一覧

山本常朝

山本常朝が書いたと想定される「御代々御咄聞書」(「佐賀県近世史料」第8編第1巻)に、鍋島光茂の話として、関ケ原の合戦のときに西軍についたのは誤りだったと言われるが、そうは思わない。これは将軍に対してもはばかることはない。なぜなら、祖父の鍋…

焼米堤

佐賀県最古の板碑は大町町福母にある。応安6年の銘がある。応安6年は1373年である。 オールコック「大君の都」に、佐賀藩領の長崎街道のすぐそばの丘のふもとにある大きな貯水池か湖のものと思われる高い堤を見かけたので、その堤の構造なり規模なりを…

佐賀市の小学4年生がつくったアニメーション

アニメを作るのが好きでたまらないのがわかる。 この労作を多くの人に見てもらいたくて転載させていただいた。http://www.youtube.com/watch?v=kiZi20USZPA

西渓公園

佐賀藩の家臣団は直臣や直臣である家老、着座の家臣からなる「組私」と三家、親類、親類同格の家臣団である「備」により編成されていた。 西渓公園は多久家筆頭家老の屋敷跡地である。若宮八幡宮の参道の西側を意味する西の原西渓にあり、公園として整備して…

嬉野茶の製造

「菊之露」30度1.8リットルを飲みはじめる。一仕事終えた週末の泡盛はうまい。週末でなくてもうまい。 幕末には、長崎での外国人への売り込みのため、嬉野茶の製造が奨励され、藩による茶の買い上げ、生産者に対する費用の貸付け、抜荷の禁止などの方策…

ジャポニズムとイマリ

「大町町史」下巻388ページに杵島炭鉱の三坑と五坑を結ぶ炭鉱電車の停留所の写真が掲載されている。なお、本文には関係する記述はない。「大町町史」下巻によると、杵島炭鉱閉山後、炭住街は空き家が立ち並び廃虚化するだろうというはじめの予測に反し、…

新後生

新渡戸稲造「武士道」には「葉隠」への言及はない。「武士道」は1899年の作である。 明治8年1月に大蔵卿大隈重信は太政大臣三条実美に対し、「収入支出ノ源流ヲ清マシ理財会計ノ根本ヲ立ツルノ議」という建議を行っている。その冒頭で大隈重信は、「賦…

協和館

中村久子氏「多様な被差別民の世界―佐賀藩の芸能民を中心に」(「近代の都市のあり方と部落問題」(部落史研究2) 1998年)によると、多久領の村に踊りや狂言の指南をしたのは末次西分村のたたきであった。また、多久領主の入部祝いには末次のたたきが…

佐賀の乱顛末異聞

嘉永4年の佐賀藩の台場築造のための幕府拝借金について、三谷博氏「明治維新とナショナリズム」(山川出版社 1997年)では、江戸近海への支出と比べると破格の大金であり、長崎の防備が内港については一応整っていた点をあわせ考えると、この措置は、こ…

鉱山沿革調

明治14年に長崎県勧業課に提出された「鉱山沿革調」(「明治前期肥前石炭礦業史料集」(文献出版)所収)によると、杵島郡では大崎村、志久村で石炭を採掘し、福母村、大町村で石炭の採掘を休止している。また、ここで採掘した石炭は、軍艦、汽船用として…

諸事御済派

「佐賀藩武雄領科人帳」(秀村選三編『九州史料落穂集』第9冊 1995年)は、その内題を「諸事御済派」という。そして本文に「右條ゝニ付御済派之通、以御書物被仰出候事」などの記述がある。これは延宝3年から元禄7年までの刑罰の記録である。 対馬藩…

肥前藩の土地改革

津田秀夫氏「天保改革」(小学館 1975年)では、「肥前藩の土地改革」として、天保9年の人改めの強化、郡方の廃止、天保12年の加地子米の5年間3分の1の軽減、天保13年の貸借銀米及び小作料の支払停止、利払いの中止、嘉永5年の西松浦郡での分給…

井伊直弼

城島正祥氏「佐賀藩の人口統計」(「佐賀藩の制度と財政」文献出版 1980年)では、佐賀藩の人口統計で中期以降女子の割合が増してくるのは、堕胎法が普及したことを前提として、男子を選択したい間引きの希望と残虐な間引きを避けたいという希望とを秤に…

願正寺の時の鐘は元禄9年8月から始まる

願正寺の時の鐘は元禄9年8月から始まる。唐人町の名は正保絵図から出てくる。 北方駅は明治28年5月に開業した。明治29年度の乗客数は47625人。31年度は96258人、35年度は114908人、44年度は79104人。しかるに平成11年度の…

芙蓉旧話

明治39年に旧蓮池藩士であった永田暉明が書いた「芙蓉旧話」には、蓮池藩の刑罰は次のとおりだったとしている。藩士(侍、手明鑓、徒士、足軽)の罪 待罪 3日〜5日 呵責 7日間謹慎 逼塞 30日家を出るを禁ず 蟄居 50日家を出るを禁じ人に接するを得…

嬉野温泉

「黒田家文書」第2巻116号文書は、長崎の石火矢台の管理分担について大目付に申し入れるに際しての黒田光之から鍋島勝茂への内談書写しである。 オールコック「大君の都」の中の嬉野温泉の記述。岩波文庫による。 「最初にわれわれが訪れた湯治場は、街…

田代領生蝋座銀会所関係文書

嘉永2年8月に鍋島直正の嫡子直大は種痘を受けた。「野田家日記」(西日本文化協会 1974年)に、「去冬(嘉永2年)以來當春夏懸て、一統植疱瘡はやる、至而輕安也、此後ハ皆此通リと申事」という記述がある。 田代領では安政2年に産物主法方が設置さ…

嘉永7年11月の大地震

「加那」40度を飲みはじめる。黒糖焼酎の甘い風味に酔う。 「直正公譜御年譜地取」(佐賀県近世史料第11巻)に、天保8年4月4日に、大坂屋敷から大塩平八郎の乱による火事のため町奉行所からの指図により人数を出した旨の報告があったことが記載されて…

佐賀県内の石敢当

「西日本文化」395号に掲載の金子信二氏「佐賀の石敢當」にあげてある佐賀県内の石敢当。 神埼町曽根ケ里天満宮境内 佐賀市松原2丁目徴古館前 佐賀市水ケ江2丁目中野建設敷地内 佐賀市蓮池町大字見島八幡神社境内 多久市東多久町別府二区国道203号線沿い…

薬屋株

小林肇氏「対馬領田代売薬史」(1960年 自家出版)には、文政元年に対馬藩領になった浜崎で、運上銀と引き換えに薬屋株を与え、売薬を保護したことを記した資料が紹介されている。 渋沢栄一はその自伝「雨夜譚」(岩波文庫)で、「藩札というは現今の兌…

高輪広岳院

武雄新町のお抱え医師、中村諒庵は天保8年に種痘を行っているとの説が石井良一氏「武雄史」にある。一方、「武雄市史」によると、「中村諒庵墓誌銘」には天保10年に種痘を行ったとの記述がある。 蓮池藩の歴代藩主の墓は宗眼寺、小城藩は星厳寺と玉毫寺、鹿…

長瀬町

鍋島光茂、鍋島直能、鍋島綱茂は京都の公家、中院通茂の和歌の弟子だった。鍋島光茂は、通茂の妹を正室として迎え、元禄13年には、通茂から古今集の箱伝授を受けたという。松澤克行氏「元禄文化と公家サロン」(「元禄の社会と文化」(日本の時代史15)…

徒罪町

「小城町史」に紹介された「直能公御年譜」附録によると、官人橋から中極、吉富、立物ケ里、祗園川(底井樋)、三ケ島、初田、大寺、乙柳、生立ケ里、乙女井樋、芦刈と流れる芦刈水道の開削者は小城藩士安住勘助(道古)とされている。 「直能公御代、御領分…

相良知安の墓は唐人町城雲寺にある

相良知安の墓は唐人町城雲寺にある。また、顕彰碑が本郷の東京大学医学部構内にある。 「常山紀談」には、佐賀の大名関係として、龍造寺隆信の戦死と島原の乱での先陣争いの件が載っている 「あやつり」と呼ばれるあやつり人形芝居の徒が佐賀藩にはおり、宝…