新後生

新渡戸稲造「武士道」には「葉隠」への言及はない。「武士道」は1899年の作である。


明治8年1月に大蔵卿大隈重信太政大臣三条実美に対し、「収入支出ノ源流ヲ清マシ理財会計ノ根本ヲ立ツルノ議」という建議を行っている。その冒頭で大隈重信は、「賦税ニ直間ノ別アリ。之ヲ徴課スルノ道、宜シク直税ニ軽クシテ間税ニ重クスベシ。何者(なんとなれば)直税也者本人ヨリ直チニ収納スルモノニシテ、其疾痛ノ及ブ所自カラ至切至迫、故ニ之ヲ軽クセザレバ、民命ニ堪ヘズ、収納ノ税額亦随テ寡少アルヲ免レズ。間税ハ則チ然ラズ。其物タル既ニ物価中ニ包含シ、常ニ売買授受ノ間ニ生ジ、自カラ知ラズ識ラズ償却スルノ勢アリ。故ニ之ヲ重クスト雖モ、民甚ダ之ヲ厭苦セズ、収額亦随テ増多ナルヲ得ベシ。是レ実ニ賦税徴課ノ妙用、世界ニ亘リ易フベカラザルモノナリ。」と説いている。(「日本近代思想大系」8「経済構想」)


正司考祺は、「経済問答秘録」の中で、他領からの商品の移入を禁止することは「畠水練」であると酷評している。そして、「国産は唯上製を本とすべし」と説き、品質がよければ天下の人はそれを求めるとしている。「経済問答秘録」は「日本経済叢書」におさめられている。


富吉神社東の堀は「アオ取り堀」と呼ばれ六角川からの灌漑用水を取水していた。


有田は慶長16年の三部上知の際に武雄領から本藩直轄領となった。


「有田町史」商業編Ⅰによると、佐賀藩における最初の有田磁器の専売制の記述は多久家の「御屋形日記」享保20年9月17日条の記述であり、ここで記載された専売制は寛延2年9月6日の「御屋形日記」に廃止された旨の記述がある。


嘉永7年(安政元年)に対馬藩田代領では隠れ念仏「新後生」の摘発がなされ、3200人以上が処罰された。 


「烏ん枕」とは腰岳の黒曜石の表出部分の呼び名である。


天和3年の「三家格式」では、道路河川の改修や猟について新規の事項について本藩と相談するよう定められている。


大ばかもり食堂は1995年に閉店した。