2007-03-01から1ヶ月間の記事一覧

鳥取市

鳥取市は人通り、駅と城址にある県庁との間の1.2キロがメーンストリート、その並びの通りが飲み屋街、県庁前の通りが幹線道路、ちょっと暗い夜の町並みと佐賀市と似たつくりの都市である。 鳥取砂丘の観光施設の雰囲気に昭和のにおいを感じる。 「時雨」…

桐島屋

久しぶりに戸越公園商店街の桐島屋のポークカレー大盛を食べる。口の奢った今でもこれはうまい。

日本酒

「くら」12%、1合カップを飲む。日本酒のようである。

宮地岳線

宮地岳線の新宮以北は今月末で廃止。各駅では駅名票をかたどったキーホルダーを売っている。

カラオケ

カラオケはベトナム語でもカラオケという。今帰仁酒造の「天使の夢」12%、1合カップを飲む。

称念寺

称念寺と願正寺は佐賀城下町の、幕府上使や長崎奉行の休泊施設である茶屋だった。

戊辰戦争

梶原良則氏「佐賀藩における軍制改革」(「九州史学」103号 1992年)では、安政期の長崎海軍伝習によって伝えられた最新のオランダ式軍制は旧軍制の不備を認識させたが、上級家臣団の反対から家臣団編成の改革には至らず、長崎警備のために創設された…

サツマイモ

天保6年に唐津藩見借村庄屋宗田運平が書いたという農書「農要録」(「日本農書全集」第31巻)には、サツマイモのことを「琉球芋」と記述している。

琉球芋の商売

中村久子氏「多久家「御屋形日記」から」(佐賀県部落解放研究所紀要19)に紹介された多久家御屋形日記安永10年(天明元年)2月26日条に、佐賀藩が、これまで在所で塩、明松以外の商売を停止していたところ、これからは、農具、打綿、油、鰯、ひじき…

琉球芋

深江順房が幕末に著した「丹邱邑誌」に多久の名産として甘藷があげられている。深江順房は、これの俗称が琉球芋であると記述し、元禄年間に琉球から種が渡来したと書いている。他国では薩摩芋ともいうと書いている。サツマイモは近世初頭には既に日本本土に導入…

基肄養父実記

「基肄養父実記」(鳥栖市史資料編第二集)に、田代領代官賀島兵介が延宝4年6月に出した壁書33か条が掲載されている。ここで、「勧進能相撲操(あやつり)等の見物の類、在々所々に一切不可留置之、附、御領分の乞食は、其掛りの大庄屋方より札を出し置…

三瀬峠

三瀬峠には、文化15年につくられた筑前と肥前を分ける国境石がある。また、虹の松原には筑肥線を隔てて2か所の対馬藩の境界石があり、これを結ぶ線がかつての唐津市と浜玉町の境界に引き継がれた。虹の松原には更に「従是東浜崎浦漁場」という漁場の境界…

多久領家臣の屋敷は中ノ館町に集まっていた

小城藩家臣の屋敷は赤松町、鬼丸町に集まっていた。多久領家臣の屋敷は中ノ館町に集まっていた。また、幕末の佐賀城下町では町人と混住して商売をしている手明鑓、徒士、足軽、被官などの下級武士が名字を記した表札をかけて、町人と区別していた。以上、「…

丁百歳

「佐賀藩多久家御定書」(文献出版)に「九六百歳」と「丁百歳」になった者に対する拝領金の規定がある。金銭だけでなく年齢にも96を以って100とみなすことがあったらしい。

佐賀藩代官所

幕末の佐賀藩代官所 与賀、上佐賀、川副、皿山、横辺田、市武、諫早

嘉瀬川の流路

島原の乱に出兵した鍋島勝茂は寺井津から出発した。 現在の嘉瀬川の流路は江戸時代にはいってからの流路である。奈良時代以前には現在の巨勢川、佐賀江のルートをとり、鎌倉時代には現在の多布施川、八田江のルートをとり、戦国時代には現在の多布施川、本庄…

白石鍋島氏の菩提寺は浄蔭寺

「菊之露」1.8リットルを飲みはじめる。体を酷使したあとに飲む泡盛はうまい。根をつめた仕事のあとの泡盛もうまい。どんなときも泡盛はうまい。 白石鍋島氏の菩提寺は浄蔭寺、諫早氏は天祐寺、多久氏は圓通寺、神代鍋島氏は常春寺、倉町鍋島氏は浄圓寺。…

馬代金の拝借

長野暹氏「佐賀藩身分編成に関する一考察」(「西南地域の史的展開」近世篇 思文閣出版 1988年)に、志久村の百姓が馬代金の拝借を願った例が紹介されている。佐賀藩では耕作用馬購入代金の貸与が制度化されており、そこでは侍身分の者が百姓として拝借…

嬉野茶

嬉野茶は幕末開港後、長崎で外国人に売り込むために佐賀藩によって製造が奨励され、生産された茶は藩がすべて買い上げた。これにより佐賀藩は軍艦購入の財源をつくるねらいがあった。

役料銀

明和9年からの藩政改革に際して町奉行らに出された「町方付而之書付」(「鳥栖市史」資料編第三集)では、町奉行らが役料銀や使番料として、町内の者が費用を差し出していることを指摘し、今後、これを禁じ、役米等を渡すとされている。また、江湖端、堀、…

春落

「春落」とは村の田畑一般について、蒔き付けのときすでに百姓に約束する落米。検見によって与えられる落米のことは「当検見落」、「秋落」といった。城島正祥氏「佐賀藩における知行の切地と上支配・銀主支配」(「法制史研究」23 1974年)による。 …

丹邱邑誌

「丹邱邑誌」では多久の御屋形から近在の他領各地への路程が記載されている。そこでは佐賀、小城、伊万里、鹿島、塩田、蓮池、嬉野、武雄、須古、祐徳院、有田、神埼、彼杵、唐津があげられている。これらが多久から見た要所だったと考えられる。

北山刀指

城島正祥氏「佐賀藩の人口統計」(史学雑誌82編9号、10号 1973年)によると、明治維新後、佐賀藩の足軽は、切米一石の「一石足軽」や「無禄足軽」も卒族に編入されたところ、「北山刀指」について、小城藩領では公式に「無禄足軽」と呼ぶことにして…

法無乱橋

1962年に完成した法無乱橋は、当時の佐賀市長による近くにあった佐賀球場にあやかった命名である。「法無乱」は「法無くんば乱る」と読ませるつもりであろう。「法は乱るることなし」ではないようである。

宮野町

反射炉は鉄鉱石を製錬するものではない。銑鉄(ずく)を溶解し精錬するものである。佐賀藩の反射炉ではヨーロッパから輸入した銑鉄を精錬した。陶磁器や石炭はその代価だった。 武雄宮野町は、慶長4年に後藤家信が黒髪城から塚崎城に移るにあたって黒髪城下…

葉隠全文の活字化は昭和15年のことである

天保6年に唐津藩見借村庄屋宗田運平が書いたという農書「農要録」(「日本農書全集」第31巻)には、庄屋になる者の心得として、17、8歳以上になったら、1日を3分して、一つは農事、一つは庄屋の役向と習字計算、一つは先人の書物を学ぶことを主張し…

佐賀藩上佐賀代官所の貫物定の高札

江藤新平の罪名消滅の検事総長の証明書は明治45年9月12日に渡された。 池田史郎氏「佐賀藩上佐賀代官所の貫物定の高札」(「西南地域史研究」5 1983年)に、天保4年に佐賀藩の代官が、庄屋に対し、年貢とは別に貫物として徴収することを示したこ…