2006-01-01から1年間の記事一覧

ソテツ地獄

第一次大戦後の沖縄のソテツ地獄の状況悪化の要因として、向井清史氏「ソテツ地獄」(「新琉球史」近代・現代編(琉球新報社 1992年))では、第一次大戦中のキューバやジャワの甘蔗糖の増産と第一次大戦により生産減少していたヨーロッパの甜菜生産の回…

御通り

安田美沙子は、遠い将来の夢として、沖縄に住んでカフェを開きたいらしい。沖縄の雰囲気が好きで、のんびりして自分に合ってそうだとのこと。「週刊文春」2005年5月26日号による。うりずんの季節の沖縄が好きだ。 首里城の正月儀礼では所定の朝拝が終…

竜涎香

石川の酒「守礼」を飲みはじめる。 1949年末に、軍施設の整備とともに、嘉手納牧港間の道路は三線、牧港那覇間は四線にする計画が発表された。58号線が嘉手納まで他の道路に比し広い幅員であった所以である。 1892年に沖縄県知事が海軍省に南波照…

土井利位

糸満には毛遊びの習俗はなかったという。 中尾牛乳店の2007年のカレンダーには田丸麻紀がうつっている。 文禄元年に豊臣秀吉は琉球国王を島津氏の与力とした。島津氏は明への出兵のため15000人の軍役を割り当てられたが、このうち、7000人分の…

上江洲愛は首里高校の卒業である

「かなさんどー」は下記で45秒間聞ける。 http://www.culture-archive.city.naha.okinawa.jp/html/sound/50067030.html 上記は下記の一部である。 http://www.culture-archive.city.naha.okinawa.jp/ 久米島の鳥島神社の鳥居の横には齋藤用之助の名が刻ま…

琉球を泡盛でシンボライズ

「残波」を2杯飲む。ロックで飲む。泡盛はうまい。 波照間島、与那国島、黒島、竹富島、新城島はマラリア無病地だった。 国際通りが公式に行政上の通りの名称となったのは1987年のことである。リウボウデパートが、ベスト電器のあった位置からパレット…

白鷺

1960年代の沖縄の酒のトップ銘柄は「白鷺」、焼酎甲類でコーラを混ぜるとウイスキーの色だったという。 琉球大学医学部附属病院入り口にある伊藤園の自動販売機にはサンピン茶とジャスミン茶のペットボトルが売ってある。両者の差がわからない。違うもの…

琉客談記

寛政8年に江戸に来た琉球謝恩使の随員に聞書きを行った「琉客談記」(改訂史籍集覧16)は、琉球使節が中国を訪れたときの見聞の記録である。この中で、西湖の風景を「最美なり」と評している。沖縄の珊瑚礁の海はこれにけっして劣らないと思うが、そこに住…

下関条約

下関条約では、清は朝鮮に対する宗主権を放棄している。琉球に対する条項はなく、このため、清が琉球に対する宗主権を放棄する旨の明文はないまま現在にいたっている。 ダイアモンドシティの沖縄料理店にはやはりヘチマの味噌煮はない。 昭和9年9月発行の…

沖縄が長寿でなくなる日

沖縄県の人口あたりのたばこ自動販売機の許可件数は全国一多く、件数は四国4県の件数に匹敵するという。琉球政府時代に各地に設置された公衆衛生看護婦制度は、駐在保健婦制度と名を変え、地域保健法施行に伴い、1997年に廃止されたという。この制度に…

首里から見る那覇の町と遠くに浮かぶ慶良間列島は美しい

薩摩が幕府から受けた領知判物には、幕末まで奄美が琉球国の領内とされていた。国絵図でも奄美は琉球国の一部だった。 笹森儀助は尖閣諸島や沖大東島まで行っているが、波照間島には行けなかった。 新井白石「南島志」に、「亦有蕃薯 可以代穀而食 此間俗曰…

食品標準成分表

鹿島には戦前まで沖縄県庁勤務者の関係者による沖縄遺族会というものがあったという。「新琉球史」近代・現代編(琉球新報社 1992年)所収の菊山正明氏「沖縄統治機構の創設」による。それほど鹿島藩出身の沖縄県庁勤務者が多かったのである。この論文に…

仲島大石

沖縄の伝統的な名づけは日本と同様に親と同じ字を頭につける。ただし、久米村人は中国の伝統に従い、親と子は異なり、兄弟について同じ字を頭につける。 琉球を経由して中国から書籍も輸入された。18世紀の大坂の博物学者、木村蒹葭堂は薩摩及び琉球を通じ…

ぬるい風が吹く季節になると那覇の路地や久米島のサトウキビ畑にただよう空気を連想する。沖縄で飲む泡盛がやはりうまい。泡盛の味を覚えたのがゆうな荘での立食の宴会だった。その前にも泡盛は飲んだことはあったが、7月の暑い日、国際通りや与儀公園を走…

奄美で繰られた芭蕉糸は琉球に送られ芭蕉布となり

58号線を名護に向かうバスの運転手が停留所で待っていた乗客を車内に招くのに、手のひらを上にして手招きをするのを見たことがある。アメリカのテレビ番組を見ているようだった。1度だけの経験だったが、あれは沖縄の路線バスでは違和感のない光景だった…

泡盛酒芳香的風味輿辣味的爽快感給餐卓

サン食品の「こーれーぐす」のラベルには「泡盛酒芳香的風味輿辣味的爽快感給餐卓」とあるが、「輿」は「與」ではないのだろうか。 沖縄ではいわゆる地図混乱地域のことを境界不明地域と呼んでいる。昭和52年に「沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の…

永良部鰻魚

琉球王国の頃の史料にはウミへビのことが永良部鰻魚と記されているらしい。また、鰹節は琉球では生産されていなかった。また、白糖の生産には成功せず、中国から輸入しつづけた。真栄平房昭氏「琉球貿易の構造と流通ネットワーク」(「琉球・沖縄史の世界」(…

コザ

笹森儀助「南嶋探験」(平凡社東洋文庫)に、大便をしたあとに豚がそれを食い、肛門を舌で舐める旨の記述があるが、中国においても便所に豚を飼って食わせていたことがあり、その影響なのであろう。 那覇やコザの夕暮れのうらぶれた路地を歩くのが好きだ。 …

亀甲墓

昭和天皇は皇太子時代に1度沖縄を訪れている。ヨーロッパに向かう途中、大正10年3月26日に御召艦「香取」で与那原に上陸。軽便鉄道で那覇に向かった。「香取」の艦長は沖縄出身の漢那憲和大佐(後の少将)であった。 「ペルリ提督日本遠征記」(岩波文…

フクギはフイリピン原産の常緑樹

フクギはフイリピン原産の常緑樹である。本部町備瀬の並木は有名だが行ったことはない。波照間島でフクギに包まれたような集落のたたずまいがすばらしかったことを覚えている。 ベイジル・ホール「朝鮮・琉球航海記」(岩波文庫)では那覇をナパと呼んでいる…

鹿島藩

636年に成立した隋書琉求伝が文献資料に琉球の名が見える最初の例である。もっとも、これが沖縄を指すのか台湾を指すのかは諸説あるようだが。この隋書琉求伝には、608年に琉求から隋に持ち帰られた布甲を、隋に来ていた倭国の使者が、夷邪久国人の使…

那覇と与那国島の距離は東京と徳島のそれに匹敵

石田穣一氏「沖縄の心を求めて」(ひるぎ社 1997年)に、著者が1980年に沖縄に赴任したときのバスの印象が書かれている。そこでは、沖縄のバスは、1978年の左側通行に伴う新車への一斉更新により、そろそろ傷みかかってきたもののきれいであるこ…

泡盛醸造用のカメが焼かれた

「鉄道ジャーナル」2003年8月号には、1995年以降、沖縄の乗合バスとして購入されたのは沖縄バスの1台のみであり、依然として1978年の交通方式の変更に伴う集中投入された1978年式が多数残っているとの記事がある。 新井白石「南島志」では…

新天地市場

「山原くいな」を飲みはじめる。泡盛でくつろぐ。 沖縄県内では、ビールのシェアを発泡酒が上回り、これにより、オリオンビールのシェアは、50%程度に落ちたという。2003年5月31日付け朝日新聞による。 沖縄県には戦前、高等学校以上の国立の高等…

恩納ナベや吉屋チルの琉歌

「歴史家が語る戦後史と私」(吉川弘文館 1995年)所収の高良倉吉氏の文から引用。 「沖縄において歴史研究は、明確に生き方の一つである。時代と社会が求めるのであれば、通常の歴史家のパフォーマンスがあってもよい。もしかしたら、時代や社会は歴史…

密封七年

外間守善氏「沖縄学への道」(岩波現代文庫 2002年)では、初めてオキナワの音に「沖縄」の漢字を充てたのが新井白石の「南島志」であると言われているとのこと。現在では元禄国絵図に既に「沖縄」の語があると指摘されている。 現在、市場に出回る泡盛…

金井八郎備考録

「長崎代官手代控―金井八郎備考録」第1巻(長崎文献社 1980年)所収の琉球船九州漂着の際の取計らい方。金井家は長崎代官高木氏の手代を務めた家である。 「琉球船漂着之節取計方伺書 書面伺之通取計可申旨被仰渡奉承知候(朱書) 酉九月五日(朱書) …

屋其惹

嘉吉元年に将軍足利義教から、島津忠国が大覚寺義昭追討の賞として琉球を賜わったという伝説(琉球附庸説という。「附庸」とは、王に封じられた諸侯に隷属することをいう。)保元の乱に敗れて伊豆大島に流された源為朝が琉球に渡り、その子が最初の琉球王舜…

ゆうな荘は1999年で廃業

東恩納寛惇による伊波普猷の顕彰碑銘文は下記のとおり。彼ほど沖縄を識った人はいない 彼ほど沖縄を愛した人はいない 彼ほど沖縄を憂えた人はいない 彼は識ったが為に愛し愛したために憂えた 彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった 堂前亮平氏「近代期…

薩摩木綿

泡盛は瓶詰めのままでも熟成していく。 伊波普猷「をなり神の島」(平凡社東洋文庫)に、石垣島の現在の市街は、砂地であって水溜りができず、そのため、島内に蔓延していたマラリアの害を避けることができた。これが土地がやせていたにもかかわらず、人が集…