屋其惹

嘉吉元年に将軍足利義教から、島津忠国が大覚寺義昭追討の賞として琉球を賜わったという伝説(琉球附庸説という。「附庸」とは、王に封じられた諸侯に隷属することをいう。)保元の乱に敗れて伊豆大島に流された源為朝琉球に渡り、その子が最初の琉球王舜天王となったという伝説がある。いずれも、琉球が日本本土の影響下にあることを正当化するもの。この伝説の文献については「古事類苑」の琉球の項にまとめられている。


はるか高いところにあるモノレールの駅を見るにつけ、那覇にLRTが作れなかったのかと素人考えが浮かぶ。いっそ、コザや嘉手納あたりまでモノレールを伸ばすというならよいのだが。


郡区町村編成法は明治11年に施行されたが、沖縄県では明治29年になって郡制が発足した。


日本国憲法制定の際に沖縄への新憲法適用についての議論はなかった。1946年1月29日付けのGHQの「若干の外郭地域を政治上、行政上日本から分離することに関する覚書」に表わされた、琉球諸島小笠原諸島の日本からの分離の確認が、自明の前提となっていたものと思われる。少なくとも当時の日本の支配層は沖縄を日本の不可分の土地と考えていたわけではないのだろう。


沖縄県史」資料編13(2002年)は硫黄鳥島を扱っている。


南北緯20度から30度の一帯で、乾燥地域でないのは東アジアとフロリダ半島だけである。そして、南西諸島は大陸との間に海があるため、大陸からの冬の季節風による降雨がフロリダ半島より多い。


明治12年7月に出された、琉球処分の強行への清の抗議に対する、琉球が日本に属することの説明書原文は漢文で書かれている(「日本近代思想大系」差別の諸相)。この中で、「言語もまた我(日本)と同種にして、自ら其の国を称して沖縄となす。沖縄の土音(その土地の発音)は屋其惹」とある。屋其惹は普通話では、wu(1)qi(2)re(3)になる。


薩摩藩は慶長14年に琉球に侵攻した後、慶長16年9月19日に15条からなる掟を琉球王国に対し強制した(「大日本史料」第12編の6)。ここでは、「日本之京判升之外、不可用之事」といった、年貢徴収のために必要な度量衡の統一も意図されている。また、「琉球人買取、日本江渡間敷事」と、琉球人を人身売買して日本に売ることを禁じている条項があるが、これはどのような解釈、位置付けがされているのだろうか?なお、この掟は、明治12年7月に出された、琉球処分の強行への清の抗議に対する、琉球が日本に属することの説明書の中でも引用されている(「日本近代思想大系」差別の諸相)。ただし、順番は異なっている。


南西諸島は必ずしも日照時間は長くない。那覇市は日本海側の福岡市や佐賀市より年間日照時間は短く、名瀬市にいたっては県庁所在地のどこの都市よりも年間日照時間は短い。ステップ気候に属するハワイのホノルルなどとは異なった気候である。


編集室りっか編「沖縄元気力」(東京書籍 2001年)に、沖縄に関してのアンケートに対する高倉健の回答が載っている。