永良部鰻魚

琉球王国の頃の史料にはウミへビのことが永良部鰻魚と記されているらしい。また、鰹節は琉球では生産されていなかった。また、白糖の生産には成功せず、中国から輸入しつづけた。真栄平房昭氏「琉球貿易の構造と流通ネットワーク」(「琉球・沖縄史の世界」(日本の時代史18)吉川弘文館 2003年)による。沖縄そばや汁物の味付けに欠かせぬ、また、南洋に起源を持ち、九州が大産地であった鰹節が琉球でつくられていなかったことはにわかに信じがたい気がする。「暴れん坊将軍」に、宮古島で砂糖を作っていたところ、飢饉になり、苦境を打破するため白糖の開発に成功したという回があった。当時の宮古ではさとうきび栽培は禁止されていた。  


間切を領する地頭を総地頭といい、間切を構成する村を領する地頭を脇地頭といった。そして、領する間切や村のことを噯間切、噯村と呼んだ。 


文化7年に薩摩藩琉球国扶助という名目で、琉球産物8品目(実は琉球を介して輸入された中国の産物―唐物)を、3年間長崎会所を通じて領外に販売することを幕府から認められた。


「まさひろ」を久しぶりに飲みはじめる。泡盛はうまい。週末の夜に飲む泡盛は精神を弛緩させる。