薩摩木綿

泡盛は瓶詰めのままでも熟成していく。


伊波普猷「をなり神の島」(平凡社東洋文庫)に、石垣島の現在の市街は、砂地であって水溜りができず、そのため、島内に蔓延していたマラリアの害を避けることができた。これが土地がやせていたにもかかわらず、人が集住した理由であるとの記述がある。なお、「おなり」とは、兄弟から姉妹を指す呼称で、姉妹が兄弟を霊的に守護するという信仰があって、その霊力を「おなり神」と称したという。これにより、兄弟が出かけるときに、姉妹は自分の手ぬぐいや毛髪を持たせる慣行がある。


宝永3年に薩摩藩琉球に対し、中国のほしがる物品を輸出するよう指示を与えた。これにより鱶鰭、スルメ、海参など俵物の輸出が増えた。


佐藤信淵「経済要録」には、「薩摩木綿と称する者あり、甚だ精好にして世人此れを珍重せり、然れども此れ琉球製にして、糸及び染法共に皇国の物と異なり」という記述がある。


与那国島には食人人種がいて、八重山の英雄がこれを征伐したとの伝説がある。与那国島にマレー人種がいた傍証とされている。