ゆうな荘は1999年で廃業
彼ほど沖縄を識った人はいない
彼ほど沖縄を愛した人はいない
彼ほど沖縄を憂えた人はいない
彼は識ったが為に愛し愛したために憂えた
彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった
堂前亮平氏「近代期の宮古島平良における商業空間の特性」(「沖縄の都市空間」古今書院 1997年所収)(初出は立正地理学会「地域研究」36号 1995年)で紹介された仲宗根将二氏「宮古風土記」(ひるぎ社 1988年)によると、戦前の宮古島平良の料亭街(現在もバー、スナック街である)の従業員の女性は那覇出身が多く、日常の会話は本島の言葉、三線で流れる歌も本島か八重山の民謡であったという(「江戸時代人づくり風土記47沖縄」によると、宮古の民謡に三線が導入されたのは戦後とのこと)。また、堂前氏の上記論文によると、宮古の料亭はサカナヤ―と呼ばれ、遊郭も兼ねていたという。ここの従業員が本島出身者で本島の方言をしゃべっていたり、三線を爪弾いていたことは、港町のこうした施設の主たる顧客が地元民ではなく、地元の者にとってこれらが異文化の世界だったことをものがたる。
2002年12月22日に沖縄本島の万座ビーチホテルで行われたフルートとハープの演奏の最後4曲は、順に、「さとうきび畑」、「童神」、「芭蕉布」、「涙そうそう」、2002年に話題になった3曲に加えて、沖縄のご当地ソングの不動の定番「芭蕉布」がはいっている。
「琉球処分論」(新沖縄文学38 1978年)で、安良城盛昭氏は、琉球処分の廃藩置県と比べての独自性特殊性として、版籍奉還の過程を経なかったこと、明治政府の軍事力警察力の行使による強行であったこと、置県後の領土が外交上の取引の具となったこと(分島改約案)、旧慣改革が遅々たるものであったことの4点をあげている。そして、版籍奉還なき廃藩置県という琉球処分の特質こそが、軍事力警察力による強行を生み出し、分島改約案や旧慣の存続を媒介的にもたらしたとしている。
恩納村の浜辺で満月の夜にたたずんだことがある。明るい月の光が砂浜と海とアダンを照らす幻想的な景色。翌朝は海に虹がかかった。
国道58号線は沖縄本島のメーンルートである。旧1号線としてアメリカ軍が整備したというが、それは、せいぜい嘉手納までで、そこから北の整備拡幅は本土復帰以後されている。恩納村や名護市などの国道58号線には、現在の国道にそってくねくねと曲がっている旧道があることが見受けられ、その幅の驚くほど狭いことが認められる。恩納村では海を埋め立て、山を削り、バイパスが供用されている。かつては、嘉手納を過ぎると、道幅が狭くなり、通過車両もぐっと少なくなった印象があったが、今はそうではない。これが笄を買うために髪を売ることにならねばよいが。
鍋島直彬沖縄関係文書は国会図書館憲政資料室でマイクロフイルム閲覧できる。
旧辺野古村は昭和45年に名護町ほか3村と合併し、名護市となっている。名護市街地とは本島でも最も幅の広い山を隔て反対側で、間にほとんど集落もない地勢である。40年前の市町村合併を経ていないこともあり、かつての間切がそのまま移行したような市町村が多い沖縄県では異色である。
先島が厳しい収奪を受けたことの例証として人頭税があげられる。人頭税は本島にもあった。佐賀藩にもあった。人頭税があったことそれ自体は先島の収奪の厳しさを示すものではない。人頭税の中身がどうであったのか、人頭税以外はどうだったのか、そもそも、先島の収奪は他に比し厳しかったのか。事は、そう単純ではない。
ゆうな荘は1999年で廃業している。ゆうな荘から与儀公園、開南、サンライズ那覇、平和通り、国際通りと走ったことがある。
15世紀ころまでは、沖縄では北をキタと呼んでいた。
泡盛の酒造所があるのは沖縄本島27か所(沖縄県酒造協同組合を含む)、伊平屋島1か所、伊是名島1か所、久米島2か所、宮古島5か所、伊良部島2か所、石垣島6か所、波照間島1か所、与那国島3か所。西表島、多良間島、粟国島、伊江島、慶良間諸島などには泡盛の酒造所はない。
伊波普猷「をなり神の島」(平凡社東洋文庫)によると、沖縄には日本本土から「はべり」は伝来したが、「そうろう」は伝わらなかったという。ならば、「めんそーれ」は、よく言われる「参り候え」の変化であるとは言えない。
波照間島には郵便局がある。ATMもある。