食品標準成分表

鹿島には戦前まで沖縄県庁勤務者の関係者による沖縄遺族会というものがあったという。「新琉球史」近代・現代編(琉球新報社 1992年)所収の菊山正明氏「沖縄統治機構の創設」による。それほど鹿島藩出身の沖縄県庁勤務者が多かったのである。この論文によれば、明治12年、すなわち琉球処分の年において、沖縄県庁の官員定数100名のうち沖縄県出身者は24名にすぎず、以降、その割合は増えることはなかったという。


昭和25年9月発行の帝国書院編集部編「中学校社会科地図帳」では沖縄の帰属は判然としない。また、このなかの日本を示す各種地図、統計には沖縄は一切出てこない。例えば「日本各都市の人口」に那覇は出てこない。一方、昭和46年4月に文部省検定済の昭和48年3月発行の帝国書院編集部編「中学校社会科地図」には沖縄県として現れてくる。


識名に向かうバス路線が好きだ。繁多川の建物にはさまれた急傾斜の狭い道はリスボンやマカオの町並みを彷彿とさせるというと大げさであろうか。また、識名の生活道路に沿った墓地の光景も珍しい。ここまで来れば那覇の町外れである。


竹富島への観光客は3月が最も多い。全体的に11月から3月が多く、冬の観光地なのである。


小浜島では、集落を本部落、細崎、はいむるぶしに分けているという。


琉球国王祈願寺である護国寺には鹿児島から請来した「権現神像」、すなわち徳川家康の像が奉安されていた。また、幕末には島津氏が日光東照宮などに「異賊調伏」と「琉球国為安全」の祈祷を依頼し、琉球の主な神社に日本の神仏の御守札や神箭を奉納させた。真栄平房昭氏「幕藩制国家の外交儀礼と琉球」(「歴史学研究」620号)による。


沖縄の豆腐は「沖縄豆腐」として、「豆腐」とは別に食品標準成分表で独立して扱われている。


細川護貞「細川日記」(中公文庫 1979年)から引用。
「又高木少将公を訪ねての話に、海軍は沖繩に全力を注ぎ居るを以て、若し百%成功せば敵の半分に損害を与ふることを得べく、是が望み得る最上の戦果なり。而して我方は訓練中のもの若干が残るのみにて、一時零となるわけなり。従つて成功するもせざるも、終結を考へざるを得ずと。」(1945年3月30日)
高木とは海軍少将高木惣吉である。


八重山のサトウキビ畑の開墾は明治26年、阿波の糖業家、中川虎之助らによりはじまる。


沖縄県内最大のガジュマルは東風平町にあるという。
http://www.town.kochinda.okinawa.jp/about/se.html


沖縄県徴兵制が施行されたのは1898年。断髪令が施行されたのは1899年。沖縄の近代史では沖縄人の日本人化が強く推し進められた年として考えられているようである。