ソテツ地獄

第一次大戦後の沖縄のソテツ地獄の状況悪化の要因として、向井清史氏「ソテツ地獄」(「新琉球史」近代・現代編(琉球新報社 1992年))では、第一次大戦中のキューバやジャワの甘蔗糖の増産と第一次大戦により生産減少していたヨーロッパの甜菜生産の回復により、世界の砂糖生産が増加したことで国際市場の糖価が下落したこと(日本の糖価は輸入糖の価格により規定されていた)、沖縄で生産される黒糖は、本土の農村需要により多く依存しており、第一次大戦後の不況による本土農村の疲弊で黒糖市場がより一層収縮したこと、商品作物である砂糖に特化していたことにより、深く商品経済に包摂されていたため、市場の影響を強く受けたことがあげられている。


民族学博物館で沖縄本島のことばと八重山のことばで話す「桃太郎」を聞いたことがある。まったく違う響きに聞こえた。


寛永3年に、後水尾天皇の二条城行幸があった。島津氏はこれに琉球使節と楽人を送った。


安良城盛昭氏「新・沖縄史論」(沖縄タイムス社 1980年)所収の「沖縄と歴史研究」の中の発言「そう、伊波さんは「おもろさうし」や沖縄ばかりを見ていたのではない。朝鮮語がある程度読めたり、明治44(1911)年河上肇が来沖した時には、河上の研究を直ぐ摂取できるだけの素養をもっていたし、そういった努力・蓄積なしにはいくら沖縄ばかりを見ていてもいい成果が生まれてくるはずはない。このことは沖縄史研究についていえるだけではなくて、沖縄研究全般、沖縄の自然科学についてもあてはまる問題だと思うね。


黄色いキャップシールの宮古の酒「宮の華」を飲みはじめる。年末年始に飲む泡盛はうまい。いつ飲んでも泡盛はうまい。