鉱山沿革調

明治14年に長崎県勧業課に提出された「鉱山沿革調」(「明治前期肥前石炭礦業史料集」(文献出版)所収)によると、杵島郡では大崎村、志久村で石炭を採掘し、福母村、大町村で石炭の採掘を休止している。また、ここで採掘した石炭は、軍艦、汽船用として長崎、神戸、若津に販売している。大崎村の坑夫は200人、志久村の坑夫は150人。


延喜式の官道は東脊振村横田ではチクゼンノウと呼ばれ、筑前縄手、すなわち大宰府にのびる道の意味だという。また、この官道を神埼町川寄ではお歯黒道と呼んでいたという。服部英雄氏「地名の歴史学」(角川書店 2000年)による。


佐賀藩領長崎沖嶋の守衛は正保4年から多久と武雄で月交替で受け持つことになったという。


貞享3年に唐津藩主松平乗久が死去したとき、唐津藩篠原村文左衛門という者が佐賀藩多久領の小侍御番狩野孫之允に注進し、狩野孫之允が多久領の屋形に報告し、更に佐賀まで報告した。「佐賀藩多久領御屋形日記第一巻」(九州大学出版会 2004年)による。


水ケ江の大木喬任生家跡の顕彰碑の碑文は久米邦武の撰によるものである。