願正寺の時の鐘は元禄9年8月から始まる

願正寺の時の鐘は元禄9年8月から始まる。唐人町の名は正保絵図から出てくる。


北方駅は明治28年5月に開業した。明治29年度の乗客数は47625人。31年度は96258人、35年度は114908人、44年度は79104人。しかるに平成11年度の乗客数は55573人、16年度は38932人であった。


東与賀町久保田町、三田川町、東脊振村、脊振村、三瀬村基山町、中原町、北茂安町、上峰町、小城町、三日月町芦刈町、七山村、厳木町、北波多村、呼子町、大町町、江北町、福富町は戦後、合併を経験していなかった。ただし、久保田町は昭和37年に芦刈町大曲を編入し、三田川町は昭和36年に南里ケ里を三根町に編入し、基山町は昭和34年に合田の一部を鳥栖市に編入し、小城町は昭和30年に多久市東多久町矢現袋の一部を編入し、上右原及び下右原の一部を多久市に編入し、芦刈町は昭和37年に大曲を久保田町に編入し、北波多村は昭和30年に白石を唐津市に編入し、江北町は昭和31年に砥川村江口及び正徳を編入している。


戦前の佐賀県内の市は、佐賀市唐津市。町は、佐志町、鳥栖町、田代町、基里町、伊万里町、山代町、武雄町、鹿島町、浜町、神埼町、蓮池町、基山町、小城町、牛津町、浜崎町、相知町呼子町、有田町、北方町、大町町、白石町、塩田町、嬉野町。このうち、佐賀市唐津町(昭和7年1月市制施行)、伊万里町、武雄町、小城町、有田町が明治22年の市制町村制施行以来の市と町であった。なお、戦後、昭和24年に北多久町、昭和27年に厳木町江北町、昭和22年に東有田町、昭和28年に多良町が成立している。昭和29年以後の大規模な合併以前の市と町は以上のとおり。昭和28年10月1日現在の2市120町村が、昭和33年1月1日には7市42町村となった。


九州大学石炭研究資料センター「エネルギー史研究」18号に、長野暹氏「佐賀地域における大正七年の炭坑争議」がある。


三木利秋氏「佐賀藩多久領被官の身分と生業について」(「九州史研究」 1968年)では、佐賀藩の被官の性格を次のとおりまとめている。
(1)侍を主人として持っていること。
(2)同じく被官といってもその身分に侍級から徒士級、足軽級、百姓級まで高下があること。
(3)軍事力構成の一単位であること。
(4)然し正規の兵力ではない。
(5)したがって正規の武士(侍、徒士、足軽)ほど強い規制を受けない。
(6)主人よりの手当の有無にかかわらず、独自に生業を営むこと。


「松乃落葉」では、長崎聞役のことを聞番、その役宅のことを聞番小屋と記載している。