嘉永7年11月の大地震

「加那」40度を飲みはじめる。黒糖焼酎の甘い風味に酔う。


「直正公譜御年譜地取」(佐賀県近世史料第11巻)に、天保8年4月4日に、大坂屋敷から大塩平八郎の乱による火事のため町奉行所からの指図により人数を出した旨の報告があったことが記載されている。これによると、棒や鳶口の用意が大坂屋敷にはなく、やむを得ず、虫のついた槍の柄3本で棒をこしらえたとのことである。


「黒田家文書」第2巻116号文書の明暦2年2月8日付けの老中奉書写には次のように記載されている。
「於長崎かう崎・めかミ・大とを此三ヶ所石火矢台之所者其年之当番、又白崎・かけの尾嶋・長刀岩・高ほこ此四ヶ所者非番之方江附之、石火矢・大筒・玉薬共以、向後者不及奉書、当番・非番次第請取渡之儀、年々無相違可被有之候、右之段鍋嶋信濃守江茂相達候」


鍋島直正公伝」によると、嘉永4年の佐賀藩の台場築造のための幕府拝借金の名目は風水害の救恤だった。「直正公譜」(佐賀県近世史料第11巻)にその記載がある。「直正公譜」には、「御増築之儀、耳目ニ相顕候通無之而不相叶儀候」との佐賀藩側の感想がある。


野口家日記(日本農書全集第11巻)に、嘉永7年11月の大地震の記事がある。「同五日の七ツ時に大地震にて世間大さわぎ、夫に付ては諸神社の石の戸類等荒々ゆいたをし、所々に依ては家もゆいたをし、或は堀川の元木ぬくめ或はたなぢもゆい浮み」とある。なお、嘉永7年は11月27日に安政改元されている。


新幹線建設に関連して、もともと長崎本線は嬉野を通るはずだったのに、明治時代に嬉野に宿泊する人がなくなるからと地元が反対したことで、有田から早岐まわりになったと言われることがある。
このことは嬉野町史にも載っているが根拠はあげられていない。
鉄道忌避伝説は全国にあり、青木栄一氏「鉄道忌避伝説の謎」(吉川弘文館 2006年)ではそれらのほとんどに史実としての根拠がなく、逆に明治の頃から鉄道誘致運動が行われている場合が多いこと、当時の技術ではルートの選定に地形の要因が決定的であること、いったん決まったルートは基本的にくつがえらないことが指摘されている。
嬉野の場合も、有田まわりは軍港佐世保への輸送ルートであって、もともと嬉野まわりだったのがやむなく変更されたものとは考えがたくその史料もないこと、嬉野大村間は山がそびえていること(蒸気機関車の時代は有田回りの武雄永尾間ですら機関車を増結していた。昭和にはいってから建設された現在の長崎本線も山を避けて鹿島まわりのルートとなった)からも実態のない伝説と思われる。