西渓公園
佐賀藩の家臣団は直臣や直臣である家老、着座の家臣からなる「組私」と三家、親類、親類同格の家臣団である「備」により編成されていた。
西渓公園は多久家筆頭家老の屋敷跡地である。若宮八幡宮の参道の西側を意味する西の原西渓にあり、公園として整備して多久村に寄付した高取伊好の雅号がこれにちなんだ西渓であったため、西渓公園と呼ばれるようになった。春の桜、夏の青葉、秋の紅葉、冬の枯木立、四季を通じて見所のある公園である。
漏斗谷の家では、屋根の中央がへこみ、雨水は漏斗の底の穴から落下して屋根裏の梯瓦(ていがわら)で受けられ外壁の排水口に向かって流れる。梯瓦(ていがわら)は6、7枚の瓦をつないだもので、4、5メートルの長さで緩傾斜をなし、2本の木枠でささえられている。「佐賀県の歴史散歩」(山川出版社 1975年)による。
鹿島藩屋敷の入り口の赤門は明治になって今の色に塗られたものである。また、同様に赤い大手門は第二次大戦後塗られたものである。
明治14年3月末に大隈重信が提出した「憲法意見」は、福沢諭吉の高弟、太政官権大書記官の矢野文雄が起草したものである。ここでは、明治16年はじめに国会を開くことが主張された。もともと大隈重信は君主専政論者であり、この意見提出により大隈は国会論者からも反国会論者からも機会主義者として反発された。坂野潤治氏「明治デモクラシー」(岩波書店 2005年)による。