戸せき

首里の酒「咲元」を飲むはじめる。泡盛を飲むと気分がくつろぐ。


佐賀藩の科人帳には、「戸せき」という言葉が出てくる。これは、町人百姓に対する刑罰である「戸〆」にあたると考えられる。佐賀では「しめる」を「せく」という。


幕末の三都の風俗を記した、喜田川守貞「近世風俗志(守貞謾稿)」二(岩波文庫)に、
「江戸新川新堀辺、酒問屋多し。その下男に樽ころと号して酒樽の出入をなす者は、必ず鍋島毛氈を三尺帯に挟みて前垂とす。江戸酒賈も問屋にあらざる者は渋染前垂等を用ひ、ただ問屋たるころのみこれを用ふ。問屋にあらざるも樽あまた出入の時は、これを用ふもあり。鍋島は肥の佐嘉城主の氏なり。佐嘉制と云ふべきなり。また氈と云へども、けむしろにあらず。太よりの木綿織りにて紺赤等の図のごとき織紋あり。」
また、喜田川守貞「近世風俗志」四(岩波文庫)に、浅草の川開きの花火の記事に続いて、「因みに云ふ、大坂にては、難波橋辺、鍋島蔵邸前にて花火を焚く。」とある。佐賀藩の大坂蔵屋敷は天満堀川の西側、天満十一丁目にあった。別に陶器蔵(ここにも米蔵があった)が堂島川北岸にあった。


「近世畸人伝」(岩波文庫)の売茶翁の項からの引用。常用漢字に直している。
「後肥前にかへりて、師に仕ふること十四年、師没して、法弟大潮をあげて其寺の主とし、自は平安に遁る。(中略)さればいくほどなく、売茶翁の名あまねく世に聞ゆ。さるに其故国の法、疆(さかひ)を出づるものは必官のしるしをたづさへ、十年一たび帰りて更に命ぜらるゝことをうく。僧といへども同じ。翁七十にのぞみて復(また)国に還り、自僧を罷(やめ)、其国人のつかへて京にあるものの下に名をよせて、十年の限りを免(まぬがれ)んとこふ。国もとより翁の為人(ひととなり)を信ずるゆゑに、これを許す。(中略)終に蓮華王院の南、幻々庵にして化す。世寿八十九。宝暦十三癸未七月十六日也。」