志田林三郎
「多久市史」第2巻には、少年期の志田林三郎の才能を示す史料が紹介されている。中目付から頭目付への上申である。(「御屋形日記」万延元年9月7日条)
「 孫六殿(多久家家老 多久造酒)被官 別府町
亡志田紋太郎子
當申八(ママ)歳 志田林三郎
右之者未タ算術稽古等為仕義にて無之由にて候得とも、天性之才にも御座候哉買売之者市中にて俄に相分り兼候取引等有之節、相尋候得は、空算にて何程と申義申分候由、尤六ケ敷法算ニ相拘候義は、其道不存候向は出来申間敷候、扨又混雑いたし分り兼候俄之義も有之候節は、昼夜不安寝食程之気質之趣に御座候、惣ては師走之生之由にて年比も幼少に相見、稀成童子にて、此末算法等相学打追成長いたし候はヾ、末以格別御用にも可相立と、其市中にも余程珍敷事に申述候、此段御達仕候 已上」
「柳川さん」とかつて呼ばれた人々がいた。福岡県南部から佐賀平坦部の田植え時期に出稼ぎに来る女性のことを言った。江口正芳氏「佐賀農業覚書」(金華堂 1970年)によると、大正12〜13年に三化螟虫対策のため、それまで、早生、中生、晩生と時期がずれていたものを、移植期を引下げ、6月20日以降に集中させたため、労働力が不足したことにより、出稼ぎを必要としたとのことである。
鳥栖市史資料編第一集「日記抜書」明和6年7月26日条に、田代領で「東之方ニ両三夜丑刻、彗星之如キ怪星出ル。」とある。明和6年7月26日は1769年8月27日にあたる。また、7月28日には未の刻に大地震があったという記事がある。
鳥栖市史資料編第一集「日記抜書」寛政3年8月3日条に、反物を盗んで質に入れた60歳になる女の住む村の庄屋が、この女を半日か1日、さらし者にしたいが、私を以って人を罪することは遠慮すべきかと、田代代官所に申し出て、そのとおり行えと指示を受けた記事がある。
「水江臣記」(「九州史料落穂集」第5冊)の中薗千左衛門の項には、蔚山の城に籠城した加藤清正軍の粮米が尽き、難儀したため、牛馬を殺して食ったとある。これは慶長の役のときの記述であり、臼杵の僧侶慶念も同様の記述を行っている(北島万次氏「秀吉の朝鮮侵略」山川出版社 2002年)。
また、長尾覚右衛門の項には、「天叟様(龍造寺家久、後の多久安順)高麗御出陣之砌御供仕罷越候、彼奥国赤国迠罷通」とある。ここでの「奥国」は「青国」で、忠清道を指し、「赤国」は全羅道を指す。豊臣秀吉は朝鮮の地図のうち、慶尚道に白色、全羅道に赤色、忠清道と京畿道に青色を塗り、それぞれ、白国、赤国、青国と呼んだ(北島万次氏「秀吉の朝鮮侵略」山川出版社 2002年)。このことが、元禄年間と思われる時期に、多久家家中の事績を記載すべく編纂された「水江臣記」にも生きている。
「水江臣記」では、他にも朝鮮と島原での戦功の記述が多く見受けられる。