虎口前
「葉隠」聞書六に、美麗の先祖が梅崎作兵衛であり、新庄に知行があること、藩主光茂のときに加増がなされたこと、宗秀正組で御留守居組内であることが記載されている。
「虎口前」という言葉がある。「葉隠」では戦場の意味で書かれている。また、「鍋島直正公伝」では「禄高に賦課された義務をいふ。禄を食みたる侍は、素より豫て承知し居るべき事なりとす。」とある。
幕末の佐賀藩に関する編纂物。「佐賀藩海軍史」(知新会 1919年)、「鍋島直正公伝」(侯爵鍋島家編纂所 1920年)、「佐賀藩銃砲沿革史」(肥前史談会 1934年)。
承応元年12月に、異国への渡航、人売り、ニセ銀、博打、徒党を停止する制札は佐賀藩内下記の21か所に立てられた。「鳥栖市史資料編」第三集「鳥ノ子御帳」二による。これらが、当時の領内の要衝だったといえる。支藩三藩の所在地はここにはない。
白山、神埼、轟木、鳴瀬、塩田、矢上、武雄湯町、有田、別府、三瀬、本庄町、寺井、千栗、牛津、浜町、多良、諫早、神代、伊万里、深堀、脇津。
「松乃落葉」は、明治になって、本島藤太夫が鍋島閑叟の事蹟を記録顕彰するために書いたものである。
田代領の売薬は朝鮮○○と名づけた例が多かった。朝鮮の名を付けた方が薬の効能が高いと思われたのであろうし、対馬藩の大セールスポイントだった。江戸時代の朝鮮に対する感情の一端が窺われる。
板坂耀子氏編「近世紀行文集成」第2巻(葦書房 2002年)所収「菅の下葉」に、名護屋城や呼子の詳細な記述がある。名護屋城から対馬の山々が雲の如くかすかに見えるとある。とても見えるとは思えないのだが、この真偽は如何。
「佐賀県近世史料」第1編第4巻所収の「吉茂公譜」宝永7年5月条に、それまで、生類憐れみの令により、貝の幕府への献上がなかったところ、将軍家宣の代になり、献上してよいとの達しがあったので、先例のとおり、海茸を献上したとの記事がある。将軍家宣は宝永6年5月1日に将軍となっている。海茸というと、鯉魚門で見た巨大な海茸を思い出す。