点役庄屋

鳥栖市史資料編第四集「近世鳥栖商業資料」所収の「犬丸家文書 嘉永五年日記」及び「広瀬家文書 田代領生蝋座銀会所関係文書」についての言及が、校訂者である長野暹氏によって、「講座・日本技術の社会史1 農業・農産加工」(日本評論社 1983年)の中でされている。
そこでは、蝋の収益の収奪を、対馬藩は失敗し、佐賀藩は成功したとの見解が出されている。


御国枡は享保5年に始まるとは、相良宗蔵の説。出来立米は米の収量。口米、反米、夫料米はいずれも本年貢に附加されたもの。大配分の反米や夫料米の一部は本藩に上納された。冥加、運上銀は一般に本藩が収納した。人別銀は大配分にも適用された。


配分地には点役庄屋と石方庄屋がおり、石方庄屋は年貢を徴収し、点役庄屋は夫役や小物成に関係する仕事をした。慶長8年に出版された日葡辞書には、点役として、「ある仕事をするようにと、主君がすべての人に負わせる任務、または義務」とある。中世以来の用語が残ったものと思われる。


三家、親類、親類同格、連判家老、加判家老、着座、独礼、平侍、手明槍、徒士、足軽の序列は天和頃に定まった。


藩が、町人から借銀をする家中の知行地の一部を抵当として預かって町人に借銀返済の保証を与えたのが切地の上支配、元禄2年に始まる。 


牛原村平吉女房は、同じ村の金右衛門と密通し、天明8年7月に娘を連れて久留米領に駆け落ちしたが、8月に連れ戻された。先非を悔いていることを酌量され、牛原村の往来の辻に一日さらし者にされたうえで、平吉のもとに返された。さらし場での立札の文言は「此女儀、まおとこかまへ、其うへ、かけおちいたし、女の道にそむき候科により、此所にさらし候もの也」このあと、女房がどうなったかは不明。平吉はどう扱ったのであろうか?鳥栖市史資料編第一集「日記抜書」による。


天和3年5月に、田代町の宿屋で、40歳以下の下女を雇うことが禁止された。これは、若い下女を抱えて客との不行儀があるため、延宝6年に30歳以下の下女を雇うことを禁じたところ、年をごまかして30歳以下のものを雇っているため、雇入れ禁止の年齢を引き上げたものだという。鳥栖市史資料編第一集「日記抜書」による。


「丹邱邑誌」の中で、地子免許の地である構内(郭内)には「胡同宅地」が93か所あるとの記載がある。胡同というのは井戸のことだろうか?と思ったがやはり小路のことであろう。中国古典を学んだ近世日本人にとって、胡同という単語は普通の知識だったのだろうか。


長野暹氏「幕末期の佐賀藩における郷村事情」(「肥前史研究」1985年)で紹介されている志久村からの領主に対する訴願の内容。
早田、中田の取立目安の提出延期。郷蔵の葺き替え援助。囲苗すること。領主からの稲作用油支給に伴う代金の津筈による支払い。囲苗からの援助。稲作用油支給。浮立の催し許可。村社の屋根葺き替え援助。難渋者への古着支給。飢飯米の支給延長。用水井樋の普請。郷蔵壁塗り替え。家作のため庄屋役地貸与許可。救米の返済延期。耕地の属する村の変更後もひきつづき変更前の村の者が耕作することの許可。拝借馬購入代金の貸与。
村からの要求は多岐にわたる。領民のセーフテイーネットとしての役割を領主は担っていた。担わなければ、支配の秩序が崩れた。


有田の焼物はかつてワラで荷造りされていた。それを行う職人は荷師と呼ばれていた。


佐賀間6尺2寸、京間6尺3寸。


南出真助氏は、正応元年の高城寺文書の旱潟荒野の開発地について、「米津土居」、「東故衙土居」、「南里土居」などを比定し、当時の海岸線は、南里―東古賀―米納津―西古賀―舟津の標高2.5メートルの等高線にかたどられる湾入部としている。(「中世における有明海沿岸低地の開発」(水津一朗先生退官記念事業会編「人文地理学の視圏」大明堂 1986年))


高伝寺の鍋島、龍造寺両氏の墓は明治になって鍋島直大が集めたもの。明治4年7月から、相良栄蔵、今泉千秋等が調査し、肥後高瀬の龍造寺隆信の遺骸などを集め、明治7年5月に改葬を終了したもの。