杵島山

酒盛の様子はいかうあるべき事なり。心を付けて見るに、大方呑むばかりなり。酒といふ物は、打上がり綺麗にしてこそ酒にてあれ。気が付かねばいやしく見ゆるなり。大かた人の心入れ、たけ\/も見ゆるものなり。公界物なり。(葉隠聞書第一)
大酒にて後れを取りたる人数多なり。別して残念の事なり。先づ我がたけ分をよく覚え、その上は呑まぬ様にありたきなり。その内にも、時により、酔ひ過す事あり。酒座にては就中気をぬかさず、不図事出来ても間に合ふ様に了簡あるべき事なり。又酒宴は公界ものなり。心得べき事なり。(葉隠聞書第一)


杵島山では多久領主が鹿狩りを行っていた。


安永4年に佐賀藩は財政困窮の打開のため人別銀の徴収を行った。侍、百姓、僧、町人を問わず賦課されたところ、旅中の僧、虚無僧、座頭盲女の類、穢多、叩、非人、乞食が例外とされた。活字史料としては、「佐賀部落解放研究所紀要」15号所収、中村久子氏「多久家『御屋形日記』から」に紹介の安永8年11月9日条がある。


天明3年5月に、佐賀藩は郷村法令ともいうべき「教諭書付」なるものを出した。趣旨は郷村が丈夫になり、人別が増えるように仰せ付けるというものである。ここでは、享保17年の凶作、翌年の疫痢により、人民がおびただしく死に、いまだにどの郷村も明家のみで田地と人力がつりあいがとれず、これが順調な収穫ができない大元の原因と分析している。天明3年は享保18年から50年後であり、50年経ってもなお、享保の飢饉の被害が続いていることに驚く。また、ここでは、女子が生まれても親兄弟の害になると心得違いをしている者がいると指摘し、双子が生まれると恥辱のように思う者がいると指摘している。「鳥栖市史資料編第三集」所収「教諭御書附」による。これは、神埼代官所に出されたものである。


延宝3年7月10日に武雄領高橋町の市ですりが捕まった。すりが、肥後国山鹿の者と言ったため、佐賀に報告したところ、佐賀まですりを連れてくるようにとの指示で佐賀まで連れて行った。すりは「評定場」で取り調べられた。以上、「佐賀藩武雄領科人帳」(秀村選三編『九州史料落穂集』第9冊 1995年)による。高橋の市がすりがいるほどにぎわったこと、すりが他領の者である場合に佐賀まで伺いを立てて慎重な対応を図っていること(この場合の「佐賀」とは他の記載から類推するに武雄領主のことと思われる。)、そして、評定所で吟味していること、佐賀に送ることを「差下候」と表現していること(佐賀の方が海抜が低いからと解釈してよいのだろうか?)等々、興味深いものがある。


「野田家日記」(西日本文化協会 1974年)56ページ、文政7年11月4日条は「小城大ち町火事也」とあり、相知のことと校注がある。しかしながら、相知は唐津領であり、「大」と「相」では仮名つかいも異なり、更に相知町と呼ばれてもいない。ここは、現在の三日月町大地町のことと解する。こちらの方が牛津にはるかに近い。「野田家日記」によると、文政7年12月に牛津に2尺あまりの雪が降ったという。