太平天国の乱により南京が陥落

薩摩藩の侵入以降、久米村復興のため、久米村に琉球の人間や中国からの漂流民都合10姓が編入された。その中には京都から那覇に住み着いた3代目の孫自昌がいた。


太平天国の乱により南京が陥落、占領されたとき、琉球使節が福州に滞在しており、事態を琉球に報告している。


琉球国王と老中との書状のやり取りは正徳4年から和文体に統一された。池内敏氏「大君の外交」(「日本史講座」6 東京大学出版会 2005年)で紹介されている。