那覇の電車

琉球王国人頭税の賦課方法は、頭懸といった。全人口を惣頭、賦課対象となる15歳から50歳の者を正頭、これ以外の年齢の者や障害者で賦課対象とならなかった者を頭迦といった。人頭税は税額が一定であり、その一定の額を賦課対象となる人間の数で割ったものである。賦課対象の者が増えれば、税額が増えていったというものではない。 


那覇の電車は通堂から久米、泊を経て、崇元寺前を通って、首里の丘を登り、県立一中裏までを走っていた。現在の那覇都心部は通らない。戦前の、近世以来の那覇の町は国道58号線の海側に偏っていた。といっても、波之上宮の周りは畑だった。かつて山形屋も通堂にあった。


岩波文庫「おもろさうし」上の29番目の歌(と言っていいのか?)で「与那覇浜 聞得大君」の与那覇浜は現南風原町に比定されている。現南風原町は海に面していない。


真栄平房昭氏「近世日本における海外情報と琉球の位置」(初出「思想」796号 1990年 「「展望日本歴史」14「海禁と鎖国」2002年」に掲載)では、長崎通詞は来航唐船の起帆地との関係で、主に浙江、福建、広東など江南地方の中国語を学習したのに対し、琉球通詞は北京朝貢の必要から北京官話にも通暁していたとされる。琉球から中国への官費留学生は「官生」と呼ばれ、北京の「国子監」で、中国側の生活費負担により学んだという。


明治12年に沖縄県が成立したときの県庁は首里であったが、明治14年に那覇に移った。明治29年に、沖縄県区制と沖縄県郡制が発布され、那覇区と首里区ができた。首里区は赤田、汀志良次、赤平、当蔵、桃原、真和志、金城の7地区からなっていた。他県と同様の市制が実施されたのは大正10年のこと。