西洋ノ丸写シニシテ施行スベキナリ
毛利敏彦氏「学校教育は西洋ノ丸写シ」で)(「学士会会報」836号)より孫引き。江藤新平文書から。
学校ノ儀
夫レ学ハ道芸ノ二ツナリ、道学ハ人倫ヲ論ズルモノニシテ、人々崇敬スル所及ビ身ヲ修ムル所ノ方面ヲ□定スルモノナリ、芸学ハ天文・地理・政治及ビ百部百技ノ事ニシテ、人々智識ヲ弘メ識ヲ精クスルモノナリ、因テ道芸二ツノモノヲ分別スル如左、
一 道学ハ我皇国ハ神道アリ神祗官ノ専ラ任ジテ之ヲ弘ムベキ事ナリ、因テ神祗官へ道学校ヲ可置ナリ、
一 芸学ハ西洋諸国ニテ開タリ、因テ西洋ノ丸写シニシテ施行スベキナリ、
福岡藩の儒者、亀井南冥が天明元年に藩主に対し、熊本藩の動静について提出したという「肥後物語」(日本経済大典第22巻)の中に、熊本藩の儒者、藪孤山のもとに、蓮池藩の儒者一人が祐筆体の者を同伴して訪れ、政事を問うたという記事がある。当時の熊本藩は、藩政改革の成功例として諸藩の注目を受けており、それを学びに他藩から熊本を訪れていたようである。蓮池藩もまたそうであったのだろう。なお、天明3年に佐賀藩は徒罪の制度を採用したが、これは熊本藩の制度にならったものと解されている。