アメリカ軍

沖縄県史」資料編第1集は、1944年にアメリカ軍が編纂した、種子島以南の南西諸島の地勢、制度、民情全般に係る調査書である。収集した参考資料の95%は日本語の文献ということであり、「菊と刀」と同様、交戦国に対する基礎調査の彼我の違いに驚くべきものがある(もっとも、これは、沖縄進駐がスケジュールにのってから作成したものであろうが)。当資料の解題の中では、進駐したアメリカ軍幹部が沖縄のことをよく知っていることに対し、沖縄県側は敬愛の念さえいだいた者もいたのとのことであり、その知識の種本となったのがこの資料だろうということである。この中では、琉球人は日本人と同じ人種的な出自を持つが、よりアイヌの影響が強い。しかしながら、外見上区別はつかないとか、日本人は琉球人を見下している。これは、日本に出稼ぎしてくる琉球人が未熟練労働者であることや、琉球人が豚肉を食うことから体臭が強いと日本人が考えていることによる。一方、琉球人は、中国との関係があったことに誇りを持っており、日本人から見下されていることをそれほど卑下してはいない。また、アメリカに移住した者が多く、彼らからの情報があるからか、アメリカに対し、日本人ほどの反感を持っていない。琉球人と日本人の関係をうまく利用すれば、琉球を占領するうえで、琉球人をアメリカ側につけさせることも可能である。と記載されている。戦後、アメリカが、沖縄を日本から独立している地域と擬制し、琉球政府琉球大学等と、公的機関に、あえて、王朝時代の名称を付したことは有名であるが、その前提となる知識、考え方は、その当否にかかわらず、上記のようなものだったのである。


戦前、首里城正殿には賽銭箱が置かれ、沖縄神社と称されていた。


波照間島西ノ浜ビーチは2キロぐらいのひろがりであろうか。海鳥のコロニーやヤドカリの集団がいる生命あふれた海岸である。砂浜ではめずらしいのではないだろうか?海の家や売店はなく、水道がついたトイレとあずまやがあるのみである。さんご礁の海岸で砂浜や海を裸足で歩くのはつらく、シュノーケル向きのビーチである。


波照間島の集落は海からのぼった島の中部の高台にある。農業の集落である。集落はフクギの並木道が縦横に走る塊村で、集落の中にいると方向感覚を失うような気がする。


石垣市中央運動公園を周回する遊歩道は1500m。木立にはさまれた土や芝生の変化あるコース。疲れれば近くのガジュマルの木の下で休める。また、公園内には庭園もある。走ったり歩いたりしている人も多く、よいコースである。


石垣市街は、シード線という通りから南に広がる。これ以北は農地が広がる。離島であるせいか自動車が少なく、静かな、空気の芳しい、美しい町である。


「日本近代思想大系」22「差別の諸相」所収の「宮古島島費軽減及び島政改革請願書」(明治26年)の中に、宮古島(ここでは、宮古島伊良部島池間島、大神島、来間島多良間島水納島の総称とされている。)にある36か所の番所に「ジイサジ」、「布サジ」という小使の役があるとされている。この「サジ」とは九州でも言う「散使(さじ)」のことではないかと思われる。


明治14年5月18日、沖縄県令鍋島直彬は、内務卿松方正義と大蔵卿佐野常民に対し、沖縄県の従来の慣例を当分の間温存したい旨の伺書を提出した。その趣旨は、沖縄県は数百年来の特殊な慣行が多く、人民の知識もいまだ開明していないため、施政上に弊害ない限り、これまでの慣例を温存したいというものだった。これに対し、松方佐野両名も6月に同意している。「日本近代思想大系」22「差別の諸相」所収の史料による。ここでいう慣例とは単なる風俗習慣というのではなく、琉球王朝時代からの土地制度、租税制度、行政制度の温存ということである。これにより人頭税も続けられることとなった。人頭税宮古八重山だけでなく、本島でも課せられたことについては、安良城盛昭氏「新沖縄史論」(沖縄タイムス社 1980年)参照。