アハモリ酒

明治12年3月、松田道之官吏30余人、巡査160人、歩兵大隊400人を従え、首里城に乗り込み、廃藩置県の申し渡し書を今帰仁王子に渡した。3月29日に尚泰王首里城を退去し中山王子尚典邸に移された。5月27日に尚泰王は随員100人とともに東京に向かった。


小田静夫氏「泡盛の考古学」(2000年)には、宮城永昌氏「琉球王府の外交用泡盛」(『南島文化』4)からの引用による、琉球使節の江戸上りにおいて将軍に献上した酒の量及びその名称を記載している。それによると、寛永11年、正保元年、慶安2年、承応2年の4回は「焼酎」と称していたのが、寛文11年(1671)の謝恩使以降は「泡盛酒」と称している。江戸上がりの書類は薩摩藩が作成しており、このときに琉球の酒であることを、公的書類の上で強調するようになったものと考えられている。


寛永正保の頃に松江重頼が著したという俳諧作法書「毛吹草」に、諸国より出る古今の名物が国ごとにあげられている。 薩摩の名物として、芭蕉布、蘇鉄、赤芋、ほら貝等とならび、アハモリ酒が記載されている。また、「此外琉球之名物」が薩摩の名物として記載されている。


宝永5年(1708年)に長崎の西川如見が著した「増補華夷通商考」中の琉球の記述。(岩波文庫によるも、常用漢字に直す)
琉球 或琉求
此国過半は福州に従ひて、唐よりも往来之れ有り、薩摩より往来の所も之れ有る也。
海上薩摩より三百余里。南海の島国也。四季暖なる国也。
北極地を出る事二十五六度。
人物朝鮮に似て別也。詞も中華と通ぜず。此国には日本鎮西八郎為朝の寺有て位牌を安置すとぞ。又此国の詞には日本と同しき事多し。酒を未奇、食をかてと云の類也。最も仏神儒道を貴び、日本の風儀を習者多し。女人家内を主とり男子は耕作商売を務め、常に琵琶三味線を鼓て楽めり。此国の船日本の地に漂流の時は、其所より長崎へ送届て、長崎より薩摩へ渡して帰国す。
   土 産
木綿 芭蕉布 黒砂糖 アハモリ酒 火の酒 薬種色々 藺莚 竹器色々 骨柳色々 布 塗物道具青貝色々 土焼物 米
右の外色々有りと云ども皆福州に交易する類多し。」 
「骨柳」は柳行李、「青貝」は漆に貝の薄片を埋め込んだ文様を付したもの。


1774年旧暦1月28日に久米島で雪が降ったとの記録が「球陽」にある。


与那国島には高校がない。一番近い高校は石垣島


那覇四町は西、東、泉崎、若狭町。これに久米、泊を合わせた区域が旧那覇市。これに首里市、真和志市、小禄村が合併したのが現在の那覇市