2003年9月の香港マカオ

2003年9月に2年ぶりに香港に行った。また1日だけだったが、はじめてマカオに行くことができた。連日蒸し暑く、歩くにはハードな環境だったが、喧騒と雑踏を楽しんでいる自分がいて、まだまだ若いとも思った。後日のためメモとして残す。

オクトパスカード
2年前とは違い、ビクトリアピークに向かうケーブルカーや香港島のトラムにも利用することができた。また、スターフエリーの乗船口のどこでもオクトパスカードで通れるようになっていた。なお、海洋公園に行く路線バスはオクトパスカードは使えない。
オクトパスカード自体は、150香港ドルで購入できるプリペイドカードであり、乗降時に自動改札口の検知器に当てて必要額が差し引かれることはかわりなかった。このうち50香港ドルデポジットとして、使用料金が100香港ドルを超えた場合の予備費的なものであることもかわりない。
しかしながら、帰るときにエアポートエキスプレス香港駅で、このデポジットも含め残り110香港ドルあり、空港までの運賃は100香港ドルであることを確認の上、改札を通ろうとしたら、改札口に金額不足である旨の表示が出て扉がしまってしまった。つまり、デポジット分の50香港ドルを除いた残額では、明らかに運賃不足であることが乗車前にわかる場合には、デポジット分の50香港ドルは無視するように検知器はできているらしい。
香港だけでなく、広州や上海でも同じようにオクトパスカードのようなものは使われているが、マカオでも澳門通という名で同じようなものがあった。
しかし、路線バスの乗り降りを見ていると、香港では大部分の人が使っていたのに比べ、マカオでは半分もいないのではないかと思えた。マカオではこれを使える公共交通機関がバスに限られ、しかも運賃が均一であり、支払いに面倒がないため、香港ほど使用する利益がないのだろうと考えられる。

中秋の名月
9月11日が満月の日であって、私はその1週間前から滞在したが、テレビでも街頭でも月餅の宣伝、売り出しが盛んに行われていた。また、夜は公園などにランタンの飾り付けが行われ、テレビでは各地(北京や上海を含む)の月見に関わる行事や賑わいのニュースが流され、北京中央テレビの天気予報では蘇軾の作になるテレサ・テンの「但願人長久(水調歌頭)」が流され、九龍の海峡を望む(月がよく見える)プロムナードにもその一節が大きな看板に墨痕あざやかに書かれていた。
中秋の名月というものがこれほど盛り上がるものであるとははじめて知った。また、蘇軾の詞が名月に関わる代表的なものとして現在でも知られていることが感じられた。
テレサ・テンといえば、テレビ番組に、歌手が歌っている映像の横に、視聴者からのその歌手や歌に対するメッセージを流すというものがあり、その中でテレサ・テンが「時の流れに身をまかせ」を歌っていた。他の歌手が比較的若い歌手であった中で、テレサ・テンが扱われていることに香港人の中での今も変わらぬ人気がうかがえるし、メッセージも熱い内容であった。
8月11日の月はビクトリアピークで見た。日暮れどき、高層ビルの明かりが目立ちはじめ、香港名物の夜景が始まったときに、それを見下ろすように明るい満月が空に光っていた。ビクトリアピークに行ってよかった。まわりの観光客も月がきれいだなどと言っていた。

マカオ航路
マカオには、上環から15分おきにジェットフォイルが出て1時間ほどで着く。運賃はマカオ行きが130香港ドル、マカオから香港行きが131パタカである。香港ドルとパタカはほぼ等価であるがわずかにパタカの方が安いらしく、運賃の差はこれによるものなのかと解釈していたが、マカオでは香港ドルも通用し、香港行きジェットフォイル香港ドルで買える。そして、香港ドルを使った場合も131ドルでパタカと同額である。
香港上環の同じターミナルからは珠海への船も出ており、大勢の中国本土からの団体観光客が利用していたようである。
香港からの航路は、前半は香港の島々の間を通り抜けるような感覚であり、香港にはこんなに島があるのかと改めて驚く。島々を見ていると、瀬戸内海を船で移動しているような感じでもあるし、明るい南の海の色を見ていると、八重山の島々の間を抜けていく感じもする。香港が亜熱帯に位置することがよくわかる。また、香港にもどるときは、香港島の南西方角から入ってくるので、突如、香港の高層ビル街が現れてくる。なかなか、旅情ある到着が楽しめる。
マカオのターミナルは、市街地とは貯水池をはさんで隔たっており、道路も横断歩道や歩道が整備されていないなど、歩いて市街地に行くことは想定されていない構造となっている。私ははじめ歩いていこうとしたが、ターミナル近くのヤオハンまで行ったところでバスに乗ってしまった。
ターミナルの前にバス乗り場があり、どこまで乗っても2.5パタカ均一でしかも香港ドルも使えるし、端から端まで3、4キロぐらいの島でとんでもないところにつれていかれる心配もないので、すぐにバスに乗る方がよい。
ターミナルの前には自転車で引く三輪車の客引きもたむろしている。ターミナルの前をうろうろしていたら日本語で話しかけられた。
なお、ターミナル前の道路はマカオグランプリのコースになっている。このレースは市街地を走り抜けるレースとして有名なようだが、マカオ全体で見ると市街地の外れで比較的道路幅の広いところをコース取りしてるように思われる。

 

大三巴
カジノを除くマカオ最大の観光地は、ファサードだけが残っているセントポール天主堂(大三巴)である。この横にモンテの砦があり、マカオ博物館が両者をつなぐような形で建っている。
バスと徒歩で行くと、道が細くてくねくね曲がっているうえに、上り坂なのでたどりつくのに思わぬ時間がかかった。周辺はマカオのうらぶれたちょっと哀愁さえただよう町並みで、これを楽しむ趣味がないと、公共交通機関で行くのはきつい。前にバス停があるわけでもない。
大三巴はもっと、写真で見たときに茶色がかっていると思っていたが、実際は灰色であった。近くには「老婆餅」というものを売っている土産物屋が何軒かあり、名物菓子なのだと思われる。
大三巴に一番近い土産物屋では、他では6パタカくらいで売っているスイカジュースを12パタカで売っていた。
また、大三巴のすぐ横には廟があり、ここも中国であるとの感が強い。
幕末にアメリカ全権使節ハリスの通訳だったヒュースケンは1855年にマカオを訪れ、大三巴について、「四十年前、イエズス会の美しい教会が火事で焼けた。壁は正面を除いて全部崩れ落ちた。不思議なことに、正面の壁は、両脇からの支えを失ったのに、嵐の猛威や時の経過による荒廃にも耐えて自力で立ち、尖端に鉄の十字架をつけた、気高い、荘厳な頭部をいまなお高く掲げている。私はこのみごとな廃墟を、そのかつての主たちになぞらえずにはいられなかった。彼らはその絶頂から転落したといえ、いまなお敬服に値する気概でみずからを持しているからである。」と記している。(「ヒュースケン日本日記」岩波文庫
なお、大三巴が火災にあったのは 1835年のことである。

媽祖閣廟
マカオの名の由来になったというこの廟はマカオの南端にあり、前がバスターミナルとなっているので、どこからでもそう苦労せずに来ることができる。マカオにはバス会社は2つあるらしい。
また、海に近く1キロメートルほど離れた対岸は珠海の郊外の風景である。大勢の中国本土からの団体観光客が来ていたが、彼らの写真撮影を見ていると、この珠海をバックに撮るというパターンが多かったように見えた。
廟自体はまあこんなものかというものであったが、ここでは敷地内で、何人もの人が金銭を乞うていた。狭い階段で参拝客や観光客の通路をふさぐようにしていても排除されないところを見ると、このような人たちにマカオの住民はやさしいらしい。これだけでなく、バスに乗っても食堂でも雑踏の中でも、マカオの人たちは、香港に比べてもあたりが柔らかい気がした。香港に比べればはるかに小さくのんびりした田舎感ただよう町であるせいなのか。

マカオ市街
香港に比べればはるかに町の規模は小さく、建物の高さもなく、雑踏もたいしたことはなく、また、ちょっと通りから外れると仕舞うた屋も多く見受けられる。また、香港と比べても横断歩道が少なく、自動車の多い道、また、マカオはバイクの交通量が多く、これらが多く走る道では横断に苦労する。なお、自動車は香港と同じ左側通行である。
バスも二階建てはなく、ちょっと、沖縄の路線バスを思い出させる古めのものが走っている。ヤオハンから乗ったバスの運転手は爪楊枝を加えた粋な格好だった。 
標識などは漢字とポルトガル語の併記で、ふつうは英語は見当たらない。香港と違って道を歩いていて不安感を感じた。自分では意識していなくても香港では英語の部分も読んでいたのだなと思った。
大通りはそれでも自動車の騒音と声高な広東語の話し声が聞こえてくるが、高台の自動車がはいらない路地に入ると静かで、古い建物の多い石畳の道は香港にはない情緒と哀愁がある。

新界
元朗、沙田、牛頭角、屯門といったあたりに行った。いずれも巨大なニュータウンができているところであるが、この中では一番北にある元朗が、個性のある町並みだった。新界ではないが香港仔にもはじめて行ったが、かつての水上民の町も高層アパートの林立するうるさい町だった。
元朗まで行くと、町の雰囲気が中国本土に似てくるような気がする。独特の服装の客家の老婆が歩いていたり、露天の食堂があったり、工事中だかどうかわからないような区画があったり、ぼうっとおじさんが立っていたりして、秩序だった香港とは違ってくる。また、香港ではほとんど見ることのない自転車による移動が多く見られるようになる。
この辺まで来ると、墓の多くが亀甲墓だった。沖縄でよくみられるものよりも小ぶりだが、形や斜面にあることはよく似ている。広東でも亀甲墓があることをはじめて知った。
元朗公園の展望台の下の方には小鳥が数多く飼われており、鳥の声を聞きながら展望台を上ることになる。
元朗と屯門の間は路面電車に乗った。地図で見ていて、こんなところに電車が走って客がいるのかと思っていたが、頻発する電車どれもに立ち客のいる盛況で人口の多さと流動性の高さに驚いた。また、元朗屯門間は山かと思っていたが平地であり、途中区間でもそれなりの乗客があった。
この路面電車オクトパスカードが使える。元朗のターミナルは現在建設中の九広鉄道西線の元朗駅であり、今は町外れとなっている。元朗の繁華街は次の停留所から4つほどの停留所の間になり、この区間の乗降が多い。
一方、屯門のターミナルは対岸のランタオ島に向かうフェリーの埠頭の前で、屯門の中心街からは停留所で3つ4つ離れている。しかし、このあたりも高層アパートの立つ住宅地であり、乗降客は非常に多い。屯門中心部にある屯門公園には蛇や亀を展示する建物がある。
九広鉄道西線が九龍から元朗を通って屯門まで建設中であり、試運転列車も走っている。これが開通すれば人の流れが変わると考えられる。
牛頭角にはアモイガーデンがある。沙田にはプリンスオブウェールズ病院がある。プリンスオブウェールズ病院は沙田駅から歩いて20分程度のところにある大病院で、さすがにここに来るとマスクの割合がはねあがる。
沙田駅につながっているショッピングセンターには、すし、ラーメンなどの日本料理の食堂や和菓子の販売店がいくつもあった。一体に日本式を売り物にしている店の価格は高い。高級イメージなのである。また、文化会館に出るショッピングセンターの1階入り口には沖縄料理「かりゆし」という食堂があった。店員にすすめられたゴーヤーチャンプルー定食(めし、ゴーヤーチャンプルー、味噌汁、紅茶、アイスクリーム)とナスビとモズクその他野菜の炒め物とサッポロビール小瓶とで130香港ドル、量から考えても香港での食事としては破格の値段だった。
ゴーヤーチャンプルーは、豚のバラ肉と豆腐とゴーヤーとたまごからなっていて、これ自体はオーソドックスだったが、半分以上を占める豚のバラ肉や中国風の味付け香りは、沖縄で食べるゴーヤーチャンプルーとは似て非なるものだった。油濃ゆさがきつかった。

肺炎
肺炎の表記は非典と沙士に2分される。滞在中、シンガポールで患者が出たようだが、新聞やテレビでも大々的に扱っていた。これの影響で株価も下がったと言っていた。
入国審査ではどこでも赤外線による体温調査が行われていたし、マカオの博物館では入館時にも体温を計測された。道を歩いていてもマスクをしている人が普通に見受けられる。香港人にとってあの流行は相当の衝撃だったのだと思われる。

中国人団体旅行客
香港でもマカオでも、どこの観光地でも博物館でも中国本土からの団体旅行の群れと出会った。海洋公園のジエットコースターも9割方はお揃いの帽子とバッジを着け、独特のファッションですぐそれとわかる団体旅行客が乗っていたように見えた。ビクトリアピークでも大多数はそうだった。13億の人間が動き出すと、あの人の多い香港でも飲み込まれるような想像をしてしまった。
夜のビクトリアピークでは夜光塗料がつけてある腕輪を皆がつけている団体もあり、巨大なホタルの大群がうごめいているように見えた。ビクトリアピークでは一つの団体にまぎれて一緒に、添乗員についていった。老爺に便所の場所を教えてやった。
食堂では、ビールをついだ女性店員に、英語でサンキューと言ったら、お前はイギリスに行ったことがあるのかと聞かれたので、私はイギリスから来たのだと返した。外国人とジョークの応酬をした。




LaLaTVちゅらさんを見ながら、豆腐ようを食べる。