エビちゃん

ニューヨーク生まれの大統領はセオドア・ルーズベルトだけである。


週刊文春」2006年1月5日12日合併号によると、蛯原友里エビちゃん)は宮崎市と合併する佐土原町の閉町式に出席したとのこと。また、森光子は文化勲章が授与される11月3日のスケジュールを2000年頃からあけていたとのこと。


「地方凡例録」の頼納の解説。「田畑質入の節、通例の質金より金高余計に借受、其代り田畑は金主手作致し、年貢諸役ハ地主相勤む、之を頼納と云て金主は作り取に致すことゆえ、貞享四卯年より停止に成る、若し出入に及びたる節ハ地主は重き咎、質に取たるものは地面を取上て之も咎、加判の名主ハ役儀を取放し、証人は叱り置く定法なり」「半頼納と云ハ田畑質入の節金高少く借受、地主直小作致し、年貢ハ金主より納め、諸役ハ地主の方にて勤るを半頼納と云、頼納同然制禁なり、若し出入に及びたる節は地主叱り、金主并に加判の名主ハ過料、年季内ならバ定法通に証文を仕直させ、年季明れバ地面を取戻さする、尤も年季明て二箇月の内に訴へ出れバ、右の通り二箇月を過たらバ流地に申付る、受戻しても流地に成ても咎ハ右の通りなり」


中尾ミエは毎年ハワイに行っているとのこと。「きょうの健康」2006年1月号のインタビュー記事による。


舟木一夫和泉雅子が共演した「絶唱」は西河克己監督の故郷である智頭でロケが行われた。智頭には監督の記念館がある。


マチ針の「マチ」は小野小町のことである。


片岡千恵蔵の墓は京都の蓮華寺にある。


丸山真男氏「超国家主義の論理と心理」(「世界」1946年5月号)の執筆は、田中耕太郎氏が薦めたらしい。


明治24年にロシア皇太子の来日とともに西郷隆盛がロシアから帰ってくるという話題が新聞をにぎわした。明治24年4月7日付けの朝野新聞には、明治天皇が、西郷が帰ったなら、西南戦争でもらった将校らの勲章をはがなければなるまいと言ったとの記事が載った。この伝聞を信じ、勲章を取り上げられることを恐れた津田三蔵は5月11日に大津でロシア皇太子に斬りつけた。西郷は明治22年に正三位を追贈されており、この時点で反乱の罪は許されていた。

慶応2年に幕府は外国からの米の輸入を認めた。南京米の端緒である。


冬のソナタ」で扱われたメタセコイアの見事な並木道が神野公園にある。このことは指摘されていない。


菜種油は水油、綿実油は白油と称した。


「米欧回覧実記」によると、岩倉使節団一行は、明治6年5月27日にベネチアに着き、6月2日にベネチアをあとにしている。ここで、久米邦武は岩倉具視の命により、大友宗麟が遣わした天正遣欧使節の署名と称するものの模写を行っているが、この署名は支倉常長であるところ、久米邦武は支倉常長伊達政宗が遣わした者であることを知らなかったらしい。 


ホノルルマラソンに日本人がはじめて出場したのは1976年の第4回大会らしい。


2000年の北京では自転車に前のカゴがほとんど見られなかったが、2006年の北京では大抵の自転車に前のカゴがとりつけられていた。そして道端の修車のおじさんの姿が激減していた。