副島種臣大隈重信の葉隠評

葉隠は、佐賀藩の武士、山本常朝の口述による武士道の書として知られ、佐賀藩の武士の気風醸成に影響があったと言われている。
では、佐賀藩に生まれ育ち、やがて、明治維新の大立者として働いた、大隈重信副島種臣葉隠についてどういう見解を持っていたか。
佐賀県教育史第1巻所収の「大隈伯昔日譚」(大正3年)及び「副島伯経歴偶談」(明治30年)によってみる。

副島種臣
「抑も佐賀には古来「葉隠れ武士」と云へる一種独特の学風が存在せる者有りて(中略)然るに其頃佐賀藩石田一鼎と云ふ一種の学者が居った此石田が即ち「葉隠れ武士」の元祖である。
茲に又其「葉隠れ武士」の四誓願と云ふことがある夫れは至って穏かにある。
一 君に忠義可尽事
一 親に孝行可致事
一 大慈悲心を起し人の為に可成事
一 武士道に於て後れ取間敷事
当時葉隠れ武士が称して四誓願と云へる所の者は此くの如し。而かも此第一項に君に忠義を可尽事と云へる。此君とは何を指したる者乎と云ふと所謂御家即ち佐賀藩主公より外には無いと斯う謂はざるを得ぬ。
此の如く葉隠れ武士の篤く信じて固く執る所は佐賀藩主を君として之に忠義を尽くすに在りとすれば、此学派が其後世に及びて如何なる結果を生じたる乎と云ふと、其派が佐賀人の為に利益になったと云ふも不可ならぬ。又或は禍したちうも不可ならぬことで有る。(中略)
葉隠れ主義」即ち「釈迦も孔子も楠も信玄もいらない唯御家の為に命を捨てれば宜い」と云ふ一つの学派が出来た。さうして其「葉隠れ武士」が毎日念ずる所の信心条目の中には「武士は毎朝毎朝もう死ぬもう死ぬ今朝死ぬと覚悟すべし」なんと云ふ箇条がある。是れ等は武断の忠義には至って宜いものであるも大局の為には完全なる利益を与へぬ者である。(中略)何となれば彼れ「葉隠れ武士」の結果は我日本総体の禍福安危よりも佐賀藩のみの安危を重んずること為り、而かも維新の際に於る佐賀藩挙動の疑われたる所以は此点が一番根差して居るを以て也。」

大隈重信
「余が初めて学に就きたる時代に於ける佐賀藩の学制は此の如くなるが上に、又其窮屈に加味するに佐賀藩特有の国是とも謂ふべき一種の武士道を以てしたり。謂ゆる一種の武士道とは、今より凡そ二百年前に作られたる実に奇異なるものにして、而して其武士道は一巻の書に綴り成したるものにして其書名を「葉蔭」(葉がくれ)と称す。
其の要旨は、武士なるものは惟一死を以て佐賀藩の為に尽すべしと謂ふにあり。天地の広き、藩士の多きも、佐賀藩より貴且つ重なるものあらざるが如く教へたるものなり。此の奇異なる書は一藩の士の悉く遵奉せざる可からざるものとして実に神聖侵す可からざる経典なりき。其開巻には「釈迦も、孔子も、楠も、信玄も、会て鍋島家に奉公したる事なき人々なれば崇敬するに足らざる」旨を記したる一章あり。以て該書の性質を窺ふに足る。(中略)佐賀藩は実に斯の如き経典と朱子学とを調和して教育主義となし、之を実行せしむるに、陰に陽に種々の制裁ありて、一歩も其範囲外に出る能はざらしめんと務めたりき。」





副島も大隈も、葉隠の影響は、佐賀藩にとっての利益にならなかったと言っている。もっとも、これは、葉隠という著作そのものよりも、その影響を受けた、副島言うところの「葉隠れ武士」の考えが視野の狭いものだったと言っているのだと思われる。
また、葉隠について、二人とも次のような同じ事を指摘しているのは注目される。それは、葉隠が説くのは、佐賀藩や鍋島家に対する忠誠であって、それ以上のものではないと喝破していることである。藩の範囲を超えて、明治の日本というレベルで活躍した二人にとっては、この点で、葉隠の思想としての限界や、したがって乗り越えられるべきものであるとの認識があった。
葉隠もまた、当然のことながら、他の思想書と同様に、歴史的な制約を受けた書物である。早くに、高柳光寿氏は、葉隠にあらわれている武士道は、江戸時代中期の平和な時代にかたちづくられた観念的遊戯としての武士道であると指摘している。(武士道)
葉隠には、たしかに齋藤用之助のような、時代遅れに見える行動に出る武士も出てくるし、彼らが肯定的に描かれてもいる。
だからといって、山本常朝が説くところの、あるべき武士は、けしてそのような武士ではなく、鍋島家の家来ということが無条件の前提にあって、その範囲内で行動する近世武士なのである。
副島や大隈は、本人の自覚と時代の趨勢によって、葉隠が前提としていた世界から自ら抜け出た人だけに、このような葉隠の本質を見抜きえたのではないだろうか。