雖成少許
文久2年に幕府が上海に派遣した千歳丸には高杉晋作や五代友厚、中牟田倉之助も乗船した。高杉晋作の上海の記録は「遊清五録」といい、「日本近代思想大系 開国」に所収されている。高杉晋作は、上海に着いた夜に太平天国軍(長毛賊)と清軍(支那人)が戦う銃声を聞いている。高杉晋作は、上海はイギリスの属国と言ってもいいと評している。
西安の清真大寺門前の土産物屋には着物を着たチープな日本人形らしきものが売ってある。
「雖成少許 不敢自軽 不有少許兮 多許奚自生」(梁啓超)
杜甫が「春望」で、薄くなった白髪頭をうたったのは46歳のときだった。
満洲語を聞いてわかる人は100人前後、話せるのは50人。王柯氏「多民族国家中国」(岩波書店 2005年)による。
上海租界の最初の区域は現在の黄浦江、北京路、延安路、河南路に囲まれた東西500メートル、南北1キロメートルのきわめて狭い区域であったという。最終的に租界の面積は共同租界(1863年にアメリカとイギリスの租界が合併)が22.6平方キロメートル、フランス租界が10.22平方メートルだった。そして租界を除く上海市街の面積は26.72平方キロメートルだった。丸山昇氏「上海物語」(講談社学術文庫 2004年)による。これが現在の上海の都心部となる。上海イギリス租界の大通りは南北に、大馬路は南京路、二馬路は九江路、三馬路は漢口路、四馬路は福州路、五馬路は広東路。九江と漢口の南北が逆である。上海の市の花は白玉蘭であるが、中華民国時代は綿花であった。
アモイの市の花はブーゲンビリアである。
寛政8年に江戸に来た中国に滞在したことがある琉球謝恩使の随員に聞書きを行った「琉客談記」(改訂史籍集覧16)の中では、「福州より北京まての間に高山大嶽多し然れとも日本富士山の如き麗秀絶特なるものをみす」という記述がある。また、南京の賑わいは北京を上回るとあるが、北京までのルートからは南京はそれている。
北海公園の九龍壁は1756年にできている。
骨髄バンクは「骨髄庫」というらしい。
ブルース・リーの母方の祖母はドイツ人である。
台北から香港に向かう飛行機で四十四番の座席を探す乗客の発音がスースースーと聞こえたことがある。
杭州から上海に向かう列車の車内放送で上海がサンへと聞こえたことがある。
陳水扁の自伝「台湾の子」のライターは胡忠信である。
テレビの「中国語会話」のスキットの主役は、小林衣代、田村好恵、高木美雪とすべて4つの声調が含まれている。これは偶然ではなかろう。
福建省の名称は福州の福と建州の建からなる。
西双版納の首都、景洪はメコン川に面している。
2006年8月の北海公園で路面に水で「山外青山楼外楼 西湖歌舞幾時休」と達筆の漢詩を書いているのを見て読んでいたら、7、8歳とおぼしき少年がそれを訂正するかのように大きな声で同じものを読み始めた。この年の子どもに訂正を求められるレベルであることを認識させられた。