佐賀の乱後の佐賀に関する政府密偵報告

佐賀市史関係史料調査目録」(佐賀市役所)には、国会図書館所蔵「三条家文書」中の佐賀県などの派出中捜索書というものの解読資料が掲載されている
解説によれば、これは明治7年佐賀の乱勃発後の佐賀県、白川県、三潴県等の政情を政府密偵桜井虎太郎なる者が報告したものである。
佐賀の乱直後の北部九州の政情が報告されておりなかなかに興味深い。また、時折出てくる薩摩の情報が、新政府の脅威が西郷率いる薩摩の士族であったことをうかがわせる。
以下、佐賀県部分について何が書いてあるかを項目ごとに当該報告書の項目ごとに記す。
なお、江藤新平の蜂起は明治7年2月15日、2月末に鎮圧され、江藤は3月28日に逮捕、4月13日に処刑されている。


明治7年10月報告
1 佐賀の乱勃発の際、村の富家に士体の者が押しかけ、軍費乏しき故その身代に応じた出金を要求した。もし拒めば、たちまち抜刀乱暴に及ぶため、やむなく1戸に5円10円ずつ出した。
人民が言うに、乱が鎮撫されたら、鎮定の兵隊は帰るであろう、そうすればまた、このような暴徒が現れるかもしれないと痛心していたところ、鎮台兵は滞在し、東京から巡査出張があったので大いに喜んだ。

2 5月ごろ市内各所で付け火があった。

3 降伏が長引けば市中が戦場となると一統憂慮してしたところ、木原義四郎(隆忠 弘道館教授だった)が篭城士族を説得し降伏させたので、市中あげて木原を尊信している。

4 乱平定後は若年の士族が官員の通行を妨害することがあったが現在はなくなった。

5 6月中旬から7月上旬まで18、9歳から25、6歳の士族4、50人が市中の寺院に集まり、江藤以下戦死者の盆の祭りのため、金を出しあい、政府側についた正義派(前山清一郎一派 宗龍寺に集結した)からも出費させようとしたがリーダーがおらず立ち消えになった。

6 6月ごろ、市中の寺院に士族が集まり、除族又は懲役となった者の困窮を救うため、禄ある士族から出米させるべく話した。
しかしながら、内情はこれを強制するものであったため、県庁が話し合いを禁じた。

7 7月に前山隊の者2名が割腹死。暴徒が議論もって圧倒したため、こうなった由。

8 蜂起した総人員は8000人余であるが真に暴挙に及んだのは300名ほどであった。

9 士族の間では、春の擾乱は全く鹿児島人に欺かれた結果であると密かに話されている。

10 江藤新平の霊に祈ると諸病が治り盲眼が開き、延引している裁判もたちまち決着するとのうわさがある。そのため5月ごろより士族平民男女別なく江藤の墓参りがされている。
佐賀にとどまらず、久留米柳川等の人民も加わり、多い日は200人程が来る。
また、午前9時から午後4時までは江藤の亡霊は県庁に出て民政を聞くといって、この時間の参詣はまれになる。
連日多数の参詣があるため、墓のある蓮成寺には店が出た。
県庁が7月30日に墓参りを禁じ、また、江藤の亡霊が肥後に行ったという者もあって、人数は減ったものの、墓参りはやまなかった。
8月中旬に捕亡が寺に出向き、参詣する者ごとに姓名及び参詣の趣旨を尋ねるようにしたところ、士族の参詣はなくなったものの、いまだやまない。

11 佐賀県下の区長や村長は闇愚で御布令等を解さず、人民にも示さない。

12 8月に旧藩主鍋島直大が外国から日本に帰り、士族に説諭したが、乱に参加した者を叱ったため、中には意外に思い、参加したことを悔やむ者も出てきた。

13 乱に参加した者と前山隊の間の関係は修復していない。

14 鹿島藩士族にはいまだ封建論を主張する者が多い。

15 鍋島直大が県庁官員から乱の話を聞いたときには大いに恥じ入ったとのこと。

16 士族の話に、5月ごろ京都大阪間を旅行した際には、佐賀の県名を言えば泊めてくれるところはなかったとのこと。

17 台湾出兵(明治7年5月)のため、兵を募るため、前山清一郎に士族の説諭依頼があった。
前山が説諭したが、士族は、既に清国と戦争しているのであれば、朝命を待つことなく自ら出兵する。しかるに未だ戦争とは決しない時点で検査を受けても、不合格になれば兵員にはなれず、かえって身命をなげうつ赤心が水の泡となると主張し、徴兵に応ずる者は少なかった。

18 最近、県令北島秀朝に対し、士族が清国への先鋒を願うとしきりに迫っている。しかしながら、鍋島直大の説諭もあり、議論のみで暴挙には至らない。

19 唐津領の土民と従前の庄屋との間で争論が起こっている。ややもすると土民沸騰の兆しあり。(唐津藩の庄屋は転村庄屋で代々一つの村にいついていたわけではない。)

20 乱勃発までは県庁の官員中、他国の者は2、3名で他はことごとく佐賀藩士であった。そのためたとえ参事(次官)であっても、いかんともできず、辞職転任する状況だった。事務は、佐賀藩士の思うままで、廃藩置県は有名無実の由である。加えるに、今回の動乱で帳簿類がなくなり、一層混乱している。

21 県官には、佐賀県を他県と同視して、政府から指示を出されるのは大いに困迫するという者もいる。

22 佐賀人の中では、佐賀県の官員が他県に出仕すると、その県内の人望を失い、事務に暗い者が行くことになるため、あたかも、佐賀県は官員を貶める所であると、ひそかに言われている。

23 最近、肥前キリスト教信者が増えている。

24 岩屋河内村大野原分(旧蓮池藩)の農民9名はもともとキリスト教を信じ、伊勢神宮の玉串及び祖先の位牌を叢に捨てたため、百杖の刑に処せられた。

明治7年11月報告

1 足軽の禄が削られたことの苦情を県庁に迫り、承伏しない。

2 佐賀動乱の節、武雄の士族は官軍の教導となって出張したところ、鎮圧後、兵器は取上げられた。武雄の士族は、これは逆賊に等しい措置だとして県庁に抗議し承伏しない。

3 今年の各区の入費は、これまで米で納めるところ、金納となった。昨年の米価は今年の半額だったため、土民は昨年の相場で金納しようとするところ、区長等は今年7月の相場で金納するよう主張した。
土民が県庁に訴え、県庁から今年と昨年の平均価格で納めるよう布達があったものの、神埼武雄ではなお服従せず、ややもすると沸騰の兆しがある。

4 8月20日の風雨で県下に県庁より下げ金あるも、士族にはなかった。士族が、三潴では士民の区別がなかったのに、佐賀では区別があるのは不公平と県庁にしきりに歎願する。

5 迎島村の区入費に学費が記載してあるところ、村には学校がない。区長が私しているとして村民が出訴。他区の学費に使われていた模様。

6 人民の中には、武雄住居の士族は当春の動揺の際、佐賀の士族に資金援助するとしきりに鼓動したものの、官軍が迅速に出張ったため、変心して官軍に味方したという者がいる。
武雄住居の士族は、はじめは真の勤王の義挙かと思ったが、逆賊であるとわかって速やかに官軍についたと言っている。内心はわからない。

7 田代の旧対馬藩士ははじめから佐賀の行動には応じなかった。福岡県に状況を知らせた。

8 佐賀の士族は最近は専ら清国の事件を議論している。

9 佐賀の士族は元来議論好きで大小に関わりなく議論する。

10 最近、士族200名ほど家禄奉還出願する。  

11 最近、家禄を奉還する士族のうち資本金及び払下地を他人に売り渡し、買主から家禄のように定額を受け取っている者がいる。県庁から区長に家禄売買禁止を命じた。

12 馬渡島は全島キリスト教徒であるところ、戸籍取調べの際、神社寺院がないので戸籍法所定の記載が出来ない旨出訴あり。県令の指示で、区長が昔の氏神等を記載することとした。(戸籍は区長が処理することになっていた。)

13 唐津藩士族はいまだに旧習を固守し、本年の盆参りにも若党、草履とりを召し連れて墓参りをした。

14 佐賀の地は元来窃盗多く、大賊が少ない。

15 県官が言うには、佐賀の巡査が東京にいたときのように勉励すれば今のように各地に窃盗が多くはあるまいと。

16 動乱の節、官軍が市中に充満し、兵士は競って婦人を擁し散財した。
これを見て、各戸売女のような者を養い、その数、千人に及んだ。
県庁より7月に娼妓の人員を決めて印鑑を渡したが、その数は未だとどまらない。

17 最近の県の官員は熟和せず、誹りあっている。

18 県の官員は8月の人事異動にいきどおり、出庁しない者が多い。

19 県の捕丁は、一時の策にて県官の食客や従者等をもって充てている。彼らは賄賂をむさぼり金を借り、そのた不正の挙動をなすことしばしばである。

明治8年5月報告

1 唐津領の土民と旧庄屋が争論している。
元来、唐津領は転村庄屋であって、村に応じて禄があったところ、区長戸長が置かれ、民費が賦課されたため、土民が、これまでの庄屋への禄は返還されるべきとの主張をした。
県庁は、禄は庄屋のもので土民のものではないと説諭したが承伏しない。
4月中旬に北島県令が土民の代表を招き懇々と説諭した。

2 佐賀藩内に加地子というものがあった。これは天保13年に設けられた貧富平均の方法だったが、廃藩置県以後もそのままである。
県令がこれを改めようとしていることが漏れ、貧富の両民から意見が起り、県庁の処分を待っている。

3 旧足軽が家禄を元に復することを出願している。旧藩制のとき、軍費調達のため、5石のうち3石が減らされたのが今に至っている。旧藩の執政が言うには、元来、足軽は一代限りであり、2石づつ世禄として給与されているのは旧主の恩賜である。それを、古賀某在職時に、専断をもって2石づつ増やしたところである。北島県令は、前年2石づつ増えたのは古賀某の仁恵であり、これで足りないと言っても採用しがたいと説諭するも、承伏しない。

4 士族の話に。最近、討薩の説を唱える士族が各県にいる。思うに、陰に人がいて、国内の人心を試みているのであろうと。

5 昨年の暴動で除族になった輩に資本金として政府から下し金があったが、むなしく座食してますます困窮するばかりの状態である。 

6 県下の区長戸長は旧弊を守りみだりに威権をたくましゅうする。各区の役所はあたかも小県庁のようで、区長等は県庁からの呼び出しにも容易に出庁しない。ようやく、県庁において、従前の区戸長を廃し、他県の人を任命して、旧弊を除いてきている。

7 佐賀県官は、県の三難事として、加地子と足軽の復禄願いと区戸長の威権をあげている。このうち区戸長の威権はなくしたと言っている。

8 佐賀藩士族は、鹿児島、高知の士族の動静に従うべく、間断なく両県に立ち入っている由。ときには山口、熊本両県に立ち入っている。

9 各県に立ち入る士族の費用は同志の協力によっている。

10 士族のうち、封建論を主張する者は、他人に論破された場合、島津公も封建論を主張しているのだから、まちがっていないと主張する。

11 士族のうち、前山隊の者と暴動に参加した者とは今でも言葉を交わさない。

12 佐賀、小城両藩士には結髪佩剣で固陋の説を唱える者がいる。

13 鹿島、田代の二藩士、伊万里有田の土民は県庁の布達を守っている。

14 県官が製茶の方法を士族のうち年長の輩に説諭したところ、士族が、何年で利益が出るかと尋ねたので、県官が5年かかると答えた。士族は大いに驚き、今の政体は5年ももつかはかりがたい。恐らくもたないだろう。であるならば、家産を立てるも無益と言って、県官の説諭には従わなかったとのこと。

15 旧足軽の中には自分が士族か平民か、なぜ士族となっているか知らない者がいる。

16 唐津藩の旧藩主が昨年9月に墓参りに帰国したとき、士族はことごとく迎えに出て、そのありさまは旧藩時代といささかも変わらなかったとのこと。

17 唐津藩旧藩士は、旧習を固守し、墓参りをするにも草履とり等を召し連れ、表を飾るも内実は大いに困窮している。

18 佐賀の士族は県官をみだりに蔑視する。その原因は、士族に関する全ての事件について、県庁より諸官省に伺いを立てて、未だ可否の指令ある前に、士族に密報があって、県官の知る前に士族には既に指令があるからである。政権は士族にあると思っている。

19 昨年までは賄賂があったが、固く禁じたため、最近はなくなった。

20 今年3月上旬に、42大区から7大区になったことにより、各区扱所の入費定額金50700円余が減少した。

21 佐賀の土民は元来野菜の植付け方法を知らず、久留米の野菜を食用としていた。
県庁が説諭して植付け方法を知らせても従わないため、県庁が2町ほどの土地を買い上げて野菜を植え付け、その有益性を知らしめている。

22 佐賀裁判所設立以来、今に至るまで公平に裁決ありと人民のうちに称誉する者あり。

23 佐賀県寄留鹿児島県士族の話に、薩摩には軍費学費に供さんため3、40万ほどの予備金があり、大砲数門あり、士族のうち9割は螺旋銃を持っており、その数4万挺ほどという。

明治8年8月報告

1 旧小城藩士、中島清武、松田大之助(正久)らが、小城で会同決議し、結社する模様。(自明社のこと)

2 昨年暴動した輩が最近種々の議論を唱え穏やかでない。

3 武雄の士族某がひそかに言うには、昨年、薩摩に行き内情探索したところ、西郷と島津久光公は、これまで政府及び国内の人民挙げて不和と思っていたところ、実は親睦最も深く、世人を欺くため表面のみ不和に見せているとのこと。