長崎が日本の唯一の窓

松方冬子氏「オランダ風説書」(中央公論新社 2010年)で下記を学ぶ。
江戸時代の日本の外国とつながる対馬、薩摩、松前、長崎の「四つの口」は突き詰めれば日本が国交を持たない中国に間接的につながるための経路だった。「四つの口」は中国とつながるための装置だったのに対し、「鎖国」と呼ばれる政策はヨーロッパの勢力から身を守る政策だった。江戸時代を通じて経済的にも文化的にも日本にとって最も重要な外国は中国であり、「四つの口」から得られる中国情報は重要だったが、幕府にとっての中国の重要性の比重は江戸時代後期から幕末にかけて低下していき、ヨーロッパやアメリカの比重が高まった。長崎以外の「三つの口」はその変化に対応できなかったことから、長崎が日本の唯一の窓という言説が生まれた。
オランダ風説書はあえて結論風にいうなら江戸時代の日本が聞いたオランダ人のささやきでしかなく、それは商敵であるポルトガル人、スペイン人、フランス人、イギリス人、中国人などを日本に近づけないための「悪口」であった。そして、そのささやきはそれを確認する術のない幕府にとってたいへん貴重だったから悪口と知りつつも熱心に耳を傾け続けたが、地理的距離、言語や文化の違い、政治制度、偏見などによって理解できない、理解できても頭から退けてしまったことがほとんどだった。