徐福伝説

台北の太平洋そごうのエレベーターで、10階と言ったのを11階と聞き間違えられたことがある。エレベーターガールは巻き舌で返答した。


王勇氏「中国史の中の日本」(「日本にとって中国とは何か」講談社 2005年)に中国の史書の中での徐福伝説がまとめられている。それによると、始皇帝が徐福を東海の蓬莱島に不老不死の仙薬を求めに行かせた記事は「史記」の各所に散見され、それがいつのまにか日本と結びつき、徐福渡日説となっていった。徐福渡日説は遅くとも唐代には発生し、空海が日本に帰国する際には、空海から徐福を連想するはなむけの詩がつくられた。徐福と日本の関係についてはじめて明記したのは五代の頃義楚が著した「六帖」巻21「国城市部」の、徐福のとどまった蓬莱島が日本であり、日本の人物を長安のようであり、渡来人の秦氏が徐福の子孫であるという記述である。宋代になると、徐福渡日説はすっかり定着し、「資治通鑑」に「今人の相伝うるに、倭人即ち徐福の止まりて王たる地なり。その国中、今に至りて廟に徐福を祀る」とあったり、欧陽脩の「日本刀歌」に「徐福行く時に書未だ焚かず、逸書の百篇今なおも存せり」とある。


蘇州の人民路はかつて護龍街と呼ばれた市街の中心軸だった。  


蒋介石は1907年に日本に留学している。宋慶齢毛沢東、内山完造らは1936年の魯迅の葬儀委員となった。


広東語では「焼」はあぶり焼くことを意味するらしい。