萬華

台北の地下鉄(捷運)は4つの言葉で放送される。閩南語で「ありがとう」は「感謝」というのだろうか。何度も同じ発音を聞いた。  


萬華はもと艋舺と表記したものを、日本統治時代に艋舺の閩南語読みに日本語の音で当て字したものという。萬華には現在も艋舺公園がある。台北駅をはさむ萬華駅と松山駅の間は地下化されている。西から、萬華駅の手前から地下にはいり、台北駅を越えて松山駅の手前で地上に出る。地下の部分は砂利にコンクリートの枕木が敷設してある。台北駅のホームは2005年8月現在工事中で、本来4面あるホームのうち2面が使用されており、方向別に使用されている。大阪市並みの大都市であり、世界的にも人口稠密で周辺人口も多い台湾で最も大きな駅にしては、台北駅は駅舎こそ豪壮なものの、地下のホームは意外にしょぼく、ホームのにぎわいも、日本の大都市の主要駅とは比較にならない印象である。地下ホームの雰囲気は、押上駅泉岳寺駅のイメージであろうか。ホームの容量のためであろうか、台北駅を始発とする列車は1本もなく、近郊の駅を起終点としている。捷運の終点、新店駅の直ぐ脇には淡水河の上流部が流れており公園となっている。同じ路線の終点である淡水を流れる淡水河がヘドロの匂いがするのに対し、新店ではまだ清流の趣がある。淡水は淡水河の東側に市街があり、広い河口部を隔てて見る夕日が有名だとのことであるが、私には同じように水を隔てて見る夕日でも宍道湖に沈むそれが数段すばらしいように思われる。新店駅のバスターミナルからはほぼ20分間隔で烏来行きのバスが出ている。台北中心部からも出ているが、交通渋滞やバス停留所のわかりにくさを考えると、台北から烏来へは、新店からバスに乗った方がよい。新店から烏来までは30分程度で運賃は40元。台北市内の交通機関で使われる悠遊カードは通用しない。急峻で、原住民(台湾先住民は台湾にもともといた民族であることをしめすため、「原住民」と呼ばれることを求めている)の料理店や店舗であることを宣伝する看板がめだつ街道を行くバス路線の終点が烏来である。九份は瑞芳からバスで15分程度であろうか。瑞芳駅前の道路を渡ったバス停から頻発する金瓜石行きで行ける。九份バス停よりも次の旧道バス停の方が乗降客ははるかに多く、集落にも近い。バスはアナウンスや表示がないため乗客の流れに従うと、自然、旧道バス停で降りることになる。旧道から先には、急斜面に造られた海を臨む墓地がたくさんある。中には亀甲墓もあり、壮観である。旧道から2つ目のバス停が福山宮バス停で、九份の町の頂上部に位置し、ここからは九份の町を下ることになる。九份からは基隆と台北行きのバスが出ている。いずれも瑞芳駅前を通る。台北行きの終点は忠孝路と復興路の交差点付近、太平洋そごうの近くである。台北の繁華街は、地下商店街の発達した台北駅周辺、渋谷センター街をスケールダウンしたような西門町、台北では少ない広い歩道に商店が並ぶ復興路忠孝路交差点から東にかけてであろうか。いずれも地下鉄のジャンクションとなっている。台北駅前の三越の書店は日本語の書籍ばかりだった。忠孝路の太平洋そごうの書店は中国語の書籍が多かったが、ファッション雑誌は日本のものが多かった。台北駅周辺の地下街は昔の西鉄名店街を思い出す。西門町では萬年商業大楼の古色蒼然としたたたずまいが見ものである。2005年8月の台北の地下鉄車内には、「国際生命線台湾総会」というところが債務返済の相談を受けるという広告が出ていた。モデルは受話器を持つポーズのビビアン・スーだった。テレビ番組に「千里姻縁路」というものがあり、結婚相手を求める女性が次々に出てきてプロフィールのテロップやインタビューやポーズをとった画像などが紹介されていた。ベトナム人特集という回もあった。台北の動物園は市街から山を越えたところにあり、無人で高架を走る動物園を終点とする電車(捷運)にもトンネルがある。緑の山に囲まれる中で、山の間に台北101の先端部が見えるシュールな光景が味わえる。なお、捷運の駅名表記は国鉄と異なりピンイン表記である。台北はもともと淡水河の船着場としてはじまった都市であるが、現在の淡水河は高い堤防に囲まれ、台北の都市景観のアクセントとはなっていない。繁華街西門町は淡水河の近くにあるが、そのような気配はない。華西街夜市は独特のムードのあるアーケード街である。南北に走るが、かつての盛り場的なうらぶれ感がある。アーケード街の周辺は暗い。かつての遊郭街に位置し、現在でもその種の商売が多いようで、それに付随する性病治療の看板が目立つ。台北の市街は騎楼が多く、公共の歩道に建物の2階以上が張り出しているように見える。実際は、張り出し部分は建物の持ち主に利用権がある土地のようで、張り出し部分の舗装の方法や高さなどは好き勝手にされて、建物ごとにばらばらであるし、台北に多いバイクや商品などが好き勝手に置いてある。市街では歩行が困難な障害者の姿を見かけるが、バリアフリーとは言いがたい。暗いところでは危険も感じるところがある。香港よりもずっと歩くのには難儀な都市である。上海とはどっこいどっこいであろうか。交通マナーも香港とはかなりの差がある。一体に、台北は、香港よりも上海に近いと感じる。平渓線を走る列車はすべてジーゼルカーであり、運賃上は復興号の扱いである。そのためであろう、台北駅の運賃表では平渓線の各駅は復興号による運賃のみ記載してあり、瑞芳までは自強号など優等列車で行こうとする不慣れな旅行者をとまどわせる。瑞芳駅は、ホームと本屋との間が地下通路である。通路からホームに上がる入り口のところに改札口があり、通路部分は自由に出入りできる。そのため犬が寝ていたりする。ホームに平渓線の切符売り場があり、線内乗り降り自由の1日乗車券が売ってある。平渓線は日本統治時代に敷設された石炭積み出しのための路線で、現在は観光路線として売り出しているようである。線内は1日17往復、見たところさほどの観光地もないし、石炭積み出しのためと敷設されたということもあるのか沿線に町らしい町もないようであるが、行きかう列車はどれもほぼ満員だった。私は平日の昼間に乗ったが、ほとんどは観光客のようであった。終点菁桐駅には、日本統治時代の駅舎の横に台湾鉄路局のグッズショップがある。平渓線は十分駅でタブレット交換を行っている。十分駅近くでは線路をはさんで建物が並んでおり、江ノ島近くの江ノ電のような雰囲気がある。この集落(十分老街と案内してあった)で米粉を食べたが、店の老婆は米粉をマイフェンと発音していた。学校は夏休みと思われるが、日曜日であっても、台北の町中に日本とまったく変わらない制服の高校生の姿が見られた。繁華街でも制服姿が多く歩いており、日本の地方都市によく似た風情を出している。テレビ番組では「おニャン子クラブ」のパクリのようなものをやっており、女子高校生と称する集団が男子からのもて方などのテーマで盛り上がっていた。高校生が電車の中で勉強している姿がよく見られた。「白い巨塔」を読んでいる高校生もいた。 


福建省湄州は媽祖の生誕地である。媽祖は960年に生まれ、未来を予知し数々の海難を救った。死後、媽祖をまつる媽祖祖廟が建てられ、福建地方で海を相手に生活していた人々に信仰されていた。1123年に宋朝高麗に使節を送ったが、そのときの船団が海難に遭ったときに霊異を現して救ったのが媽祖とされている。これは船団の乗組員の多くが媽祖を信仰する福建の船乗りだったからである。船団が帰着したときに宋朝は媽祖に「順済」という廟額を賜った。海の平安を祈念して、更に宋朝は1134年に「霊恵妃」の号を下賜し、続く元朝も媽祖を特別な神と認め、1281年に「護国明著天妃」の号を与え、海をつかさどる神となった。更に清朝は、台湾を取り込むプロセスの中で、艦船を守護した功績により、1684年に媽祖を「天后」とした。以上、上田信氏「海と帝国」(講談社 2005年)による。


鄭和の5回目の航海は1417年に始まり、1419年に帰朝した。そのときにはホルムズ国がライオン、金銭豹を貢納し、アデンは「祖刺法」(ジラフ)、モガディシュは「花福禄」(シマウマ)を貢納し、卜刺哇国はラクダとダチョウを貢納したという。また、キリンは鄭和より早く、1414年にベンガルから贈られたことがあるという。上田信氏「海と帝国」(講談社 2005年)による知識。ベンガルにキリン、これはどう考えたらいいのだろうか。


台場には、ショッピングセンターの6階、7階に「小香港」と銘打った、かつての香港の雰囲気を模した飲食街がある。ここに成都からはじめて進出したという「陳麻婆豆腐店」がある。食事メニューは麻婆豆腐の定食のみ。麻婆豆腐一本で勝負している。豆板醤が効いているのは成都の店と同様なのだろうか?かつて、上海錦江飯店の四川料理店で食べた麻婆豆腐はもっと山椒が効いていた。