相良亨先生

鳥取県議会2004年12月議会議事録知事答弁より引用。
「私は、このたびの三位一体改革で多少ショックを受けましたのは、知事会が中心になってまとめました地方6団体の改革案の中に、DV被害者支援に対する厚生労働省補助金を廃止リストに入れていたのです。これなどは、今細々とした補助金で賄っておりますけれども、これを一般財源化して地方の実情に合ったやり方に変えた方がいいだろうと私も思うものですから、私も賛成をして入れたのであります。
ところが、全国からDV被害者支援に当たっておられるNPOの方々が集まって米子で集会を開いた際の一つのテーマが、一般財源化反対だったのであります。私も集まった皆さん方から大変強力に、廃止をしないでください、補助金のまま残しておいてくださいというこういう要請を受けたのであります。非常に意外でありました。なぜですかと伺いましたら、今でさえDV被害者支援に対する地方の政策というのは薄い。国庫補助金があってやっと命脈をつないでいる。これがなくなったら、どの地方団体もその分を減らして公共事業に回すに違いない。よって残しておいてくださいという話だったのです。
私はそのときに申し上げたのですけれども、今霞が関補助金があってさえ、実は全国のDV被害者支援の実態というのは非常に低い水準なのです。鳥取県などは補助金と関係なくやっていますから、そこそこの水準になっていますけれども、全国を見渡すと、非常に心もとない状況なのです。これが財源も含めて地方団体の手に移ってくると、住民の皆さんにとっては霞が関よりはよほどコントロールしやすいわけですから、ずれのない行政水準になるのではないですか、むしろそうしなければいけないのではないですかという話をしてさしあげたのですけれども、いいえ国にあった方が信用できます。自治体の方が信用できませんという話になるわけです。
私はそれを伺ったときに、地方自治に対する本質的な不信感というものを非常に感じたのであります。これは何とかしなければいけない。我々が地方分権と言っていますのは、今はるか遠い東京霞が関にある権限、財源を我々の手元に引き戻す。それは県であり、もっと言えば、市町村に移した方が住民の皆さんが直接コントロールがしやすい。例えばその行政水準が低ければ、首長をかえればいいわけです。一国の総理大臣をかえるのは難しいですけれども、市町村長さんの方がよほどかえやすいわけで、これが地方自治の一番の妙味であるわけであります。ところが、いいえ霞が関にあった方がいいというこのギャップを、深く考えざるを得なかったのであります。
これは恐らくは従前が中央集権体制でありますから、今のような有権者といいますか住民の皆さんの意識になっているのだろうと思いますけれども、これが権限も財源も県、さらには市町村に移れば、おのずから変わってくるのだろうと思います。そういう意味での有権者の意識の変化というのは、三位一体改革が進めば当然あり得るわけであります。また、あらねばならないだろうと思っています。
実情を言いますと、今の段階で例えばDVの問題で関係者の皆さんがせっぱ詰まって市町村に行っても、何のことかわかりませんというところが今まで多かったのだろうと思います。担当者もいなければ部局もない。ところが、霞が関に行きますと、それ相応の専門家といいますか専任の人がいますから、いろいろ親身に話を聞いてくれる。そういうことが恐らく国は信用できるけれども自治体は信用できないということにつながったのだろうと思うのです。
これが分権で、今までの霞が関の権限が例えば県ないし、さらには市町村に移りますと、もう市町村もそういうことを言っておられなくなりますから、当然人材を備えなければいけない。専門家を養成しなければいけないということになります。そこで初めて、自分のところの町村の規模では一人一人の専門家を養成するわけにいかない。規模が小さ過ぎる。ならば、もっと規模拡大をしなければいけない。そこで初めて合併という話が実は出てくるのであります。これが本来の私が想定する分権型合併のプロセスなのであります。」


ニューヨークのプラザホテルのロビーのトイレにはいったことがある。金色の蛇口、豪華な内装のトイレだった。


「東京人」212号に、奥本大三郎氏の「青春のゴクツブシ」というエッセイがある。そこに、「読書会と称して、一人で辞書を引き自分で考えればよいものを、人に頼り合って非能率な読書をした。」という記述がある。やってるときは非能率だとも思わなかったがそういえばそうである。また、同じ文章の中で、「東京から消えたもの」というテーマでアンケートが来たとき、氏は映画館、書店、喫茶店、公衆電話、風呂屋、原っぱというようなものが思い浮かんだという。他のものはともかく、書店が消えたものとは、東京でさえそうなのだろうか。


散歩する相良亨先生とすれちがったことがある。古武士のような先生の風貌が印象深い。古武士というものにあったことはないが。