地方図書館における文書の収集と整理―多久市立図書館の場合―

家庭教師の求人票に「四谷大塚を知っている人」と記載してあるのを見たことがある。何のことかわからなかった頃があった。


滝沢秀明上戸彩はタッキー、アヤと呼び捨ての仲らしい。「週刊現代」2005年2月5日号による。


東武電車のブレーキをかけたときのこげた匂いをなつかしく思い出す。


細川章氏「地方図書館における文書の収集と整理―多久市立図書館の場合―」(「西南地域史研究」第二輯、1978年)から引用。
「地方の為政者にとって、端的に価値を生まないものは、大多数の住民の生活とは無縁であるという割切りがある。為政者のその切捨てはそのまま住民の無関心を誘っていく。地方の歴史資料は常に少数のボランティアの手で細々とその命脈を保つ外はないのであろうか。これは単純に行政当局を無理解となじるのでは決してない。今日、地方自治体が行政の中に文化というものを組み入れることの困難な、余りにも金銭的に過ぎる日本全土のことを哀しく思うのである。(中略)今日、その規模の大小を問わず公立図書館長の大多数は、専門職でなく行政職である。専門的職場の中で、管理者は事務畑から来たものによって占められるということ位、専門職の意気を阻喪させるものはない。例えば予算面で、図書は備品になっている。或る町立図書館の友人の話であるが、新年度の予算案を作成する時、他の備品と同じように購入図書名を列記して要求するよう館長が命じたそうである。私の友人の館員が「それでは新刊書が買えません」というと、「備品をそんな計画性なしに購入してもらっては困る。これは公費なのですぞ。新年度に欲しいものが出たら、次年度に要求したらいいではないか」といわれたとのこと。寂しい思いではあるが、私はこの館長を責める気にはなれない。その館長は図書館のことを御存知ないで、唯職務に忠実であろうと努めていられるだけのことである。(中略)或人が、傷んだまま放置されている文書を見られて「裸でおいでになるようで、余りにおいたわしい。何とか衣を着せてあげて下さい」とおっしゃったことがあった。ほんとうに、貧しくとも清々しいお召物を用意してあげたい。そして長い長い歴史の証しを、遠い過去から遙かなる未来へ橋渡しするのは、資料を生んだこの土地のために、愚かではあっても地元の私たちの背に負わされるべきものでなければならない。」
 「日本のアーカイブズ論」(岩田書院 2003年)所収の高橋実氏「「解説」保存整理論の萌芽」の中で、この論文は、「現在においても、論文の新鮮さを失っておらず、地域での史料保存活動の参考となり、励みにもなる論文である」と評価されている。細川章氏著「佐嘉藩多久領地域史への模索と史料」(文献出版 2002年)に再録されている。