佐賀藩関係史料の中の赤穂事件の記述

佐賀藩関係の活字史料で見かけた記述をあげる。

文化11年に編纂された「綱茂公御年譜」(「佐賀県近世史料」第1編第3巻)には、次のように記載してある。

「一三月十四日、 勅使御馳走御役浅野内匠頭殿、於 殿中高家吉良上野介殿ヲ刃傷アリ、内匠頭殿ハ田村右京亮(ママ)へ御預、

同夜切腹、上野介殿ハ隠居被仰付、右上野介殿ハ御縁続有之候ヘトモ

  光茂公 思召有之、兼テ御不通ナリ

   附 翌年十二月十四日、内匠頭殿家来大石内蔵助其外四十六人、上野介殿宅押掛、主敵打復シアリ」

 三好不二雄氏校註「鹿島藩日記」第2巻(祐徳稲荷神社)所収の鹿島藩江戸屋敷日記の元禄14年3月14日の記事。変体仮名

は平仮名に直している。

「昼過時分、水野六郎左衛門より愛野太郎右衛門へ書通、今日於 御城、浅野内匠殿御喧「口花」、御相手吉良上野介殿之様ニ相知

レ候、爰元へ兎角不承候哉と申来候、依之、御使者御自身御勤之儀為聞合、原弥太右衛門罷出候、御月番土屋相模守様(政直)へ

諸留守居承合候得共、今日の曲事ニ付而、御勤ニは及不申由ニ而罷帰候、

一、右ニ付而、香田武太夫儀も罷出、承合候様ニと被 仰付、上杉様(弾正大弼綱憲)御屋敷へ参承合候、委細相知不申、彼御屋敷

へ逸見五左衛門殿(義永)上使ニて、屋敷騒不申様ニと被 仰付候由、

一、吉良上野介殿ミけん二刀、浅野内匠殿(ママ)より御切られ候得共、成程軽御手ニて御屋敷御帰之由、内匠殿(ママ)ハ田村右

京太夫(ママ)殿(建顕)へ御預ケ、籠輿ニて御越之由、内匠殿伝奏御馳走役、御代戸田能登守様(忠眞)、

一、右ニ付而、吉良様へ御見廻木庭三郎大夫、上杉様へ御見廻川原藤右衛門相勤候、鍛冶橋御番所へも殿中虚事ニ付、御見廻御使者

藤右衛門相勤候、市橋様(下総守直挙)ニも昼の内ハ御出番被成候」

 同じく元禄16年2月5日の記事。

「一、去四日、浅野内匠頭殿窂人四拾六人、切腹被仰付候節、検使、(中略)

一、内匠殿御家来へ 仰渡之覚(中略)

一、上杉弾正様御父子(綱憲・吉憲)御遠慮、為御見廻、又之進被遣候へは、表向御見舞之儀、何方様も御断申候間、御門入不自由、

番人申候故、御使者不相勤」

 同じく元禄16年3月27日の記事。

「上杉様御遠慮御免、民部太輔(ママ)様(上杉吉憲)御出仕御心次第ニ可成旨被 仰出候共、御歓御使者無之」

 同じく元禄16年4月4日の記事。

「浅野殿窂人吉田沢右衛門(兼貞)大小、広岳院寺僧相頼、泉岳寺より買取、立石権太夫致所持候処、刀御用被召上候、依之、金子

弐両権太夫へ被下候、

一、右大小買取候由、本多中務殿(忠良)殿御家来斉藤五郎太夫と申者、吉田忠左衛門(兼亮、沢右衛門の父)婿にて致所望度旨、

京極喜内殿(高通)御留守居相頼、助左衛門迄申来候、然共、指出之儀不相叶由、致返答候」

 関係者の系図は次のとおり。なお、お市は寛永12年、お虎は明暦3年に亡くなっている。

 

       吉良上野介上杉綱憲米沢藩主)  上杉吉憲

           |           

     上杉定勝――女             ―吉良義周(上野介嗣子)

          お虎

鍋島勝茂――お市   

          

      忠直――光茂―綱茂(佐賀藩主)

    

      直朝――直條(鹿島藩主)

 
鍋島家は初代勝茂、先代光茂(元禄13年死去)とも上杉家と姻戚関係を結び、光茂は、吉良上野介の義理のいとこにもあたることから、上杉家、吉良家と近い間柄であり、両家との付き合いを示す記事が散見される。例えば、「鹿島藩日記」第1巻では、正月18日に吉良が鹿島藩江戸屋敷を訪れたり、11月15日に、吉良の所望により、香炉や花瓶を贈っている。 
そのため、江戸城での刃傷沙汰については、自らの立場にも関わることであり、「鹿島藩日記」では情報収集の一端がうかがわれる。

 一方、本藩が後に作った「綱茂公御年譜」では、「光茂公 思召有之、兼テ御不通ナリ」と関係ないような表現がされているが、これは、後世の編纂に際しての記述であると思われる。このことは、文化11年の時点で、吉良を否定的に、反射的に赤穂の家臣を肯定的にとらえていたことがうかがえる。
また、討ち入りに参加した家臣の刀が、切腹後、泉岳寺から売り払われて、鹿島藩士の手にはいり、それが、2両で藩により買い取られたという記事はおもしろい。彼らがヒーローとして武士の世界でももてはやされたということなのだろう。「葉隠」の有名な「上方風の打ち上がりたる云々」という批判は、このような雰囲気にあえて反発する意図があったのかもしれぬ。
それにしても、この刀は、現在どうなっているのだろうか?