守貞謾稿の中の琉球

喜田川守貞「近世風俗志(守貞謾稿)」(岩波文庫)は、幕末の江戸、京都、大坂三都の風俗を詳細に記録した考証的随筆である。
岩波文庫で5冊に及ぶ大部の著作の中には、当時の琉球の産物やイメージにかかわる記述もある。概ね、以下のとおりである。

黒糖
「讃は白糖を多く産し、また上品とす、国用七、八分これを用ふ。阿次ぎ、駿遠またこれに次ぎ、泉を下とす。黒糖、薩地琉製の次ぎとす。土これに次ぎ、紀はまたこれに次ぐ。泉またその次ぎとし、尾参遠駿等を下品とす。」(巻之五)
「糖も来舶は平野町辺唐物問屋に漕し、また琉球および薩の諸島産の黒糖は、当初にある薩州蔵屋敷に漕し、中間各入札にてこれを買ふ。故に問屋なし。文政比までは、西浜に薩摩問屋ありて、琉球産の那覇と云ふ黒糖は皆こゝに来り、また大島・徳之島・喜界も往々こゝに漕し、蔵やしきには大島以下の貢物のみにて、那覇は入らざりしが、大坂町人出雲屋孫右衛門と云ふ人の謀にて、全く蔵邸に漕し問屋を廃す。」(巻之五)
大坂の商業についての記述の一部である。近畿から東海にかけて、砂糖の生産がなされるようになったが、黒糖の最高の品質は琉球産だとしている。また、「那覇」という名称が黒糖のブランドのように表現されているが、これは、コーヒーにモカがある類の、積出港の名をつけたものと考えてよいのだろうか?「大島以下の貢物」と「那覇」の違いは何なのだろうか?不勉強のため知識がない。

獣肉店
「嘉永前、豕を売ること公にこれなし。嘉永以来、公にこれを売り、その招牌(かんばん)たる行燈に墨書して曰く、琉球鍋。」(巻之五)
琉球で豚が普通に食されていたことが、この土地の特徴であると人口に膾炙していたものであろう。エスニック料理と思わせたのであろうか?
沖縄人が肉食を好むことにが、日本人が沖縄人を見下す理由の一つであると太平洋戦争下のアメリカが分析していたことを思い出す。(「沖縄県史」資料編第1集)

薩摩上布
「近年、三都ともに晴服、略服には薩摩の上布を専用す。価貴く一端金三、四両より五、七両に至る。これ外見よりその実の美善を好む故なり。(中略)けだし薩上布、縞稀にかすり多し。かすりの服は、貴人に謁し貴家に往くには憚ることもあり。右の薩摩上布流布といへども、貴価なるをもつて越後にて模造を製す。正物を用ふことの及ばざる人専らこれを用ふ。一端価金一両一、二分より二両ばかりなり。越後縞・越後紺がすりの縮布は紺色に赤を含み、薩上布は紺に青色を含めり。また越後縮は経糸太く緯糸細し。上布は経緯ともに太糸なり。今越にて薩製のごとく色糸ともに模造す。」(巻之十三、男服の夏服についての記述である)
「今世は外見華ならずして、その実善美を競ふめり。たとへば男子はもとより女子も風流を旨とす輩は冬服唐桟、夏服薩摩上布を専用とす。唐桟は木綿、上布は麻布なれども、その価謁衣等より貴ものあり。けだし唐桟、薩上布は礼服にあらず。晴服に用ふのみ。また二品とも模造を着す者もはなはだ多し。(中略)上布は越後にて模製するなり。」(巻之十六)
「薩摩上布と云ふは紺地白がすり多く、白地紺がすり稀にあり。価、地白ともに貴金四、五両より十両ばかりに至る。また、さき島と云ひ、これに次ぐ。価金二、三両余なり。(中略)薩摩紺地白がすり上布は今世大流行なり。」
ここでの「薩摩上布」とは、先島で織られ、薩摩藩に上納された麻布のことである。当時の日本で最高の消費水準であった、江戸、大坂、京都で、先島の布は、日本国中の類似品と競い、模造品が出るほどの最高の評価を得ていたのである。そして、それが「薩摩上布」と称して流通していた。また、「さき島」というブランドが出回っていたというのも興味深い。喜田川守貞はこれらが琉球の産物である旨を書いていないが、当時の三都の風流人たちは、着用していた布地の出自についてどのように認識していたのだろうか?微に入り細に入る記述を行っている喜田川守貞が書いてないということは、「薩摩上布」の名のとおり、薩摩製であると認識していたのだろうか?
なお、ここでの「唐桟」は、長崎貿易でもたらされた舶来の縞木綿。「謁衣」は金銀箔を押した絹織物のこと。また、「礼服」は、著者がよそゆきと規定している。
「薩摩上布」については、梅木哲人氏「太平布・上布生産の展開について」(安良城盛昭先生追悼論集「新しい琉球史像」榕樹社 1996年)がある。

琉球
「今世、江戸にて華にあらずして善を好む者は、表服唐桟島に下着琉球紬縞等を好数の至りとするか。天保中、江戸にて琉球紬、男は下着、女用は略の上着に流布す。」(巻之十三)
天保中は琉球紬流布す。女用は上着のみ。男用は上着にも下着にもこれを用ふ。鼠地紺縞を専らとす。千筋等細密の縞これなく、わずかにあらき縞多し。京坂には流布せず。同時前後、玉紬、紬の一種なり。琉球紬より価賤し。琉球紬を着すは特に風流を好む者のごとく、まづ普通にはあらず。故に流布といへども多からず。人品により晴服に近し。」(巻之十六)
「紬」、真綿や屑繭をつむいだ糸で織った絹織物である。「薩摩上布」と同様に、「琉球紬」もまた、風流人に愛された高級品であることが記載してある。

泡盛
泡盛 琉球製なり。泡盛壷、下図のごとくわら包にて来るなり。およそ二合半ばかりを納れたり。号けて「ひとわかし」と云ふとなり。」(後集巻之一)
この記述とならんで泡盛壷の絵とそれをわらで包んだ絵が書いてある。これだけの記述であって、泡盛がどのように受け入れられたのかという情報は得られない。

三線
「さみせんと訓ず。「世事談」に曰く、永禄年中、琉球より渡る。その時は蛇皮をもつて張る。(中略)これを三線と号くるは、三の線ある故なり。三の字さみと云ふは、閉口の音にてはねがなを、みと云ふなり。目録(論)はもくろみ、灯心はとうしみ、御帯はおみおびなどの類なり。しかるをいつの頃、何者の書き初めしにや、味の字を加えて、世間一統に三味線と書く、云々。」(巻之二十三)
「「声曲類纂」に曰く、(中略)永禄の比にや、琉球国より二弦の楽器を泉州堺の津に渡し来りしを、瞽者中小路、これに一弦を増して弾き初め、(後略)。」(巻之二十三)
琉球の産物そのものではないが、三味線が琉球から渡来したものとの記述があったのであげる。なお、「日本史広辞典」(山川出版社 1997年)の三味線の項によると、祖型は中国の三弦で、14世紀末に琉球に伝わって三線となり、通説では永禄年間に堺に伝えられ、琵琶法師が蛇皮を猫皮ないし犬皮に変え、撥で奏するなどの研究改良をしたとのことである。