アルプスの少女

「世界」2011年1月号の田中眞澄氏「いつか来た道とおりゃんせ みんながハイジを愛したので」によると、アルプスの少女ハイジは1881年の作だが、後にこれをフランス語で訳したシャルル・トリッテンが1939年に「それからのハイジ」、1958年に「ハイジのこどもたち」という後日譚が出された。それによると下記のとおり。

ハイジはクララの卒業したローザンヌの寄宿女学校に入学しハンガリー外交官の娘ジャミーと仲良くなる。
一方、村にはハイジがクララと過ごしたフランクフルトの医者が移住し、ハイジのおじいさんと親友になった。
ハイジはバイオリンを上手に弾きパリ留学も期待されたが、村の学校の先生を志願し、おじいさんの家に帰ってきてペーターと結婚した。
そして双子が授かり、ペーターは村屈指の農場主となった。
ハイジは教師を退職し、ジャミーがそのあとを引き継ぎ、ジャミーの妹マルタがハイジに預けられた。
おじいさんは安らかに生を終えた。
おじいさんの死後、おじいさんの息子の一人の娘がハイジであり、別の息子の娘がジャミーとマルタでハイジのいとこであることがわかる。


2010年12月11日付け朝日新聞によると、1985年の味の素のCMで美空ひばりが歌うことを引き受ける際に、当時、小林旭が同じ味の素のコーヒーのCMで「熱き心に」を歌い、大ヒットしていることに、「あの人には負けたくない」と言ったという。このときCMで歌ったのが「愛燦燦」である。また、「愛燦燦」の録音の10日前に、小椋佳作詞作曲のアルバム「旅ひととせ」の録音をしたところ、午後1時からの録音に当時銀行員だった小椋佳が仕事で立ち会えなかった理由を「おつとめです」と聞いた美空ひばりは、それを刑務所にいることと誤解し「大変なのねぇ」と気の毒そうな顔をしたという。しかし、「旅ひととせ」や「愛燦燦」の作詞作曲が、その時点で多くのヒット曲を持つ著名なシンガーソングライター小椋佳であることはとうに知っていたはずで、このエピソードの信ぴょう性は如何であろうか。