葉隠全文の活字化は昭和15年のことである

天保6年に唐津藩見借村庄屋宗田運平が書いたという農書「農要録」(「日本農書全集」第31巻)には、庄屋になる者の心得として、17、8歳以上になったら、1日を3分して、一つは農事、一つは庄屋の役向と習字計算、一つは先人の書物を学ぶことを主張している。


佐賀藩の役職には、秋役と定役があり、秋役は9月に年度を改め交替し、定役は年度によって変わらない役職であったという。


山本常朝の俳号は古丸、田代陣基の俳号は期酔である。葉隠全文の活字化は昭和15年のことである。


有田や浜町、塩田などでは、文政11年の「子年の大風」と呼ばれた台風を契機として茅葺から瓦葺の町家の普及が進んだ。塩田では安政期にすでに14軒の居蔵造町家が建っていた。これらの町並みの景観は茅葺町家が多数を占めた城下町佐賀をしのいでいたという。宮本雅明氏「象徴性と公共性の都市史−日本近世都市の歴史・空間・景観」(シリーズ都市・建築・歴史5「近世都市の成立」東京大学出版会 2005年)から得た知識。