ジャポニズムとイマリ

「大町町史」下巻388ページに杵島炭鉱の三坑と五坑を結ぶ炭鉱電車の停留所の写真が掲載されている。なお、本文には関係する記述はない。「大町町史」下巻によると、杵島炭鉱閉山後、炭住街は空き家が立ち並び廃虚化するだろうというはじめの予測に反し、転出世帯の約70パーセントが家族を残していったとのことである。


腰岳の黒曜石が釜山の東三洞貝塚から発見されたことがある。


野口家日記(日本農書全集第11巻)には、安政5年3月ごろから長崎でとんころりんが流行った旨の記述がある。そして6、7月頃からは現在の千代田町でも流行ってきたとのことである。コレラを追い払うために鳴り物をし、また、金立山裏に出る水を飲めばコレラからのがれられるという噂があって、多くの人が参詣したり、蓮芋、南天、胡椒(唐辛子)の三品を鉢植えしてコレラよけとした家もあったとの記述がある。


副島種臣の花押は「副」の一字である。


田中峰雄氏「ジャポニズムとイマリ」(「週刊朝日百科日本の歴史88 1800年の世界」 1987年)では、伊万里焼は明清交替の動乱期の間隙を縫ってヨーロッパに輸出された。伊万里焼が派手になっていく一方、ヨーロッパ人の主流は青と白の清楚な磁器を求め、清の安定により景徳鎮などの中国磁器が供給されるようになると、伊万里焼の取引は衰退していったと指摘されている。また、ヨーロッパでジャポニズムが流行するのは開国後の19世紀後半であって、伊万里焼が受け入れられたのは中国趣味によるものであり、伊万里焼自体が日本での中国趣味の表現であったとされている。


唐人町は正保図から現れる。