協和館

中村久子氏「多様な被差別民の世界―佐賀藩の芸能民を中心に」(「近代の都市のあり方と部落問題」(部落史研究2) 1998年)によると、多久領の村に踊りや狂言の指南をしたのは末次西分村のたたきであった。また、多久領主の入部祝いには末次のたたきが芸を披露したという。 


神野茶屋が佐賀市に寄付されたのは1923年、佐賀で初めての交通信号機が県庁前に設置されたのは1950年である。協和館は現在の佐賀中央郵便局の場所にあった。


伊万里の着道楽に有田の食道楽。


昭和40年5月まで唐人町を粉炭を積んだ荷馬車が往来していたという。原田角郎「消えていく百姓言葉」による。また、同時期まで馬神峠を同じく荷馬車が往来していた。当時、グリコの道頓堀のネオンと同じ姿が描いてあるビスケットが1枚5円だった。


佐賀藩多久領御屋形日記第一巻」貞享3年5月7日条には、将軍徳川家綱の法事を千栗山(妙覚院)で行うため、軽罪の者の赦免が本藩から伝えられ、これを受け5人をリストアップして、佐賀に伝えた記事がある。 


明治時代の佐賀の役者に袋村の光岡福松という者がいた。江戸時代の袋、末次、中津江、藤の木には「たたき」と呼ばれる芸能集団が住み、佐賀藩内の各地で獅子舞などを上演していた。