佐賀の乱顛末異聞

嘉永4年の佐賀藩の台場築造のための幕府拝借金について、三谷博氏「明治維新ナショナリズム」(山川出版社 1997年)では、江戸近海への支出と比べると破格の大金であり、長崎の防備が内港については一応整っていた点をあわせ考えると、この措置は、ことの必要よりは、先に自力で工事した鍋島斉正(直正)の熱意を買ったものと評価されている。更にこのことは、海防熱心な大名の意欲を満足させ。その協力と忠誠を確保すること、他大名の競争心を刺激し、海防努力を促す意図があったと評価されている。


尾形善郎氏「佐賀の乱顛末異聞」(「葉隠研究」54 2004年)に、佐賀の亀趺碑の例として、万部島の「明治七年戦争戦没者諸君之碑」、小城公園の「甲戌烈士之碑」、鹿島松蔭神社の「祖霊社」、晴田の「相原常吉翁記念碑」、西渓公園の「大寳聖林碑」があげられている。県内で11か所13基の亀趺像が確認されているという。


上支配分給令は嘉永5年に西松浦郡の蔵入地に、文久元年に全蔵入地に発令された。内容は次のとおり。
30町歩以上の地主へは6町歩限り、それ以下の地主へは25%を分給。
郷村居住地主の商業禁止
都市商人地主の小作地の全面没収


副島種臣は、酒をたしなまず、茶が好きだった。銀座の茶店の主人に次のような詩を贈っている。丸山幹治「副島種臣伯」から引用。
贈平野売茶翁
我性生来茶所癖 一杯飲尽俗煩空 有人若著乃公伝 百歳経過甘苦中


佐賀の石敢当に関する写真記録がホームページに掲載されている。http://www2.saganet.ne.jp/sunito/ishigantho.html


波多親は朝鮮への出兵にあたり鍋島直茂の麾下に入れられた。