肥前藩の土地改革

津田秀夫氏「天保改革」(小学館 1975年)では、「肥前藩の土地改革」として、天保9年の人改めの強化、郡方の廃止、天保12年の加地子米の5年間3分の1の軽減、天保13年の貸借銀米及び小作料の支払停止、利払いの中止、嘉永5年の西松浦郡での分給令(均田制)と文久元年の藩内全蔵入地への拡大があげられている。そして、これは本百姓体制の強化策であり、これが成功したのは、米以外に特産物が陶器しかなく、比較的に自給自足体制を持続しやすく、藩権力の領内での威力を失わせなかったからであるとされ、さらに、「長崎御警衛」の役割が、異国船渡来対策という状況をたくみにとらえて、対外的危機をあおりつつ、本百姓体制を強化するのに都合よくできていたからであるとされている。


初代蓮池藩主鍋島直澄は承応3年に佐賀から蓮池に移ったが、蓮池藩の領地が藤津郡杵島郡に集まっていることから、居城を塩田に移そうと考えていた。


鍋島直正公伝」に記載されている文政10年の赤札事件については、「佐賀県史」や「佐賀県の歴史」(山川出版社 1972年)などの通史に記述がない。


中村久子氏「博奕場のはなし」(「西南地域史研究」13 2000年)には、安永6年に佐賀藩多久領でばくちを行った武士が、取り締まりにあたる穢多に見逃してもらうための賄賂を渡したり、その賄賂の金を当の穢多に借りた例が紹介されている。


吉良町には吉良ワイキキビーチや「義理と人情 吉良町」と書いた碑があるらしい。