長瀬町

鍋島光茂、鍋島直能、鍋島綱茂は京都の公家、中院通茂の和歌の弟子だった。鍋島光茂は、通茂の妹を正室として迎え、元禄13年には、通茂から古今集の箱伝授を受けたという。松澤克行氏「元禄文化と公家サロン」(「元禄の社会と文化」(日本の時代史15)(吉川弘文館 2003年))による。鍋島光茂は上杉定勝の娘を正室に迎えていたが、明暦3年に亡くなり、寛文3年に通茂の妹を正室に迎えている。2人の間に第4代藩主吉茂が生まれている。


嘉永7年(安政元年―11月に改元)4月調査の竈帳によると、長瀬町は140世帯中31世帯が鍛冶、9世帯が鋳物、9世帯が金物細工に従事していた。これらの職人の動員のもと、近くの築地反射炉の築造は嘉永3年から始まっている。