徒罪町

「小城町史」に紹介された「直能公御年譜」附録によると、官人橋から中極、吉富、立物ケ里、祗園川(底井樋)、三ケ島、初田、大寺、乙柳、生立ケ里、乙女井樋、芦刈と流れる芦刈水道の開削者は小城藩士安住勘助(道古)とされている。
「直能公御代、御領分芦刈数千石の所、水少なく候て、耕作難儀候に付き、安住勘助存立にて川上河より水道を掘り申すべくと、水上より夜なく游ぎ、流れを試み候こと七夜ほどにして、水行を考え今の水分けの所より水道を掘り候へば、芦刈に水懸り不足これなきと積もり置き候由、佐賀の方へ下り候地形は少々高くこれあり、小城の方へ低くこれあり候に付き、佐賀役々申談じ、佐賀へ七部通り、小城には三部通り定めこれあり、右の通に候へば、芦刈の水不足これなく、其上は用なしとの積り也、其後勘助頭取にて只今の芦刈水道を掘申候、しかるところ、元禄十三年頃、佐賀の方より石荒籠を入れ候に付き、小城の水行細く相成候故、川口取合始まり、宝永・享保・元文の頃に至っても色々むつかしく相成候共、近世淀女ケ渕の上なる石荒籠出来候より、却って小城の方への水行に障これなく、川口取合の論も相止み候也」
鍋島直能小城藩第二代藩主、承応3年に相続し、延宝7年12月まで藩主の地位にあった。「荒籠」については、「地方凡例録」に「筑後国にては堤を土居と云ひ、石出・籠出を荒籠と云ひ」とあり、川岸から川中に突き出した構造物をいう。


原田角郎氏「消えていく百姓言葉」(金華堂 1975年)には、戦前の佐賀平坦部の農村でも犬を食うことがあったことが紹介されている。もっとも、ここでは家庭での食事として取り上げられているわけではない。


小城藩の評定所は本町にあり、その南側に牢獄があった。その一帯の通称は徒罪町(とじゃあまち)というらしい。


原田角郎氏「消えていく百姓言葉」(金華堂 1975年)に、「草田」を地主への抵抗から作付放棄した水田という記述がある。


日蓮宗を庇護した小城の千葉氏が支配していた地域は現在でも、日蓮宗の勢力が圧倒的だそうである。太田心海氏「旧鍋島藩の被差別部落と宗教」(「佐賀部落解放研究所紀要」3 1986年)による。


「堺原町東町平之允と申者娘なつ、当春比新庄増田村盲女とわと申者弟子ニ相附居候処、当凶年付而被追出、親之元へ参候処、親よりも追出候由ニ而、七歳ニ罷也童女、此間より為徘徊此方罷越、小路廻り門抔ニ而一夜を明シ居申付、時節柄寒中等仕候而ハ御六借敷、多久町別当文平より境原町別当迄右之趣書状相副、志久庄や迄差送、夫より荻野庄屋夫丸両人宛相附、事〃境原町別当迄差送候事」
中村久子氏「多久家―「御屋形日記から」―」(「佐賀部落解放研究所紀要」5 1988年)で紹介された享保17年10月28日の多久家御屋形日記の記事である。享保の飢饉に遭遇した7歳の盲女(だから、盲女とわのもとに弟子入りした)なつに関する記事はいろいろなことを想像させる。