相良知安の墓は唐人町城雲寺にある

相良知安の墓は唐人町城雲寺にある。また、顕彰碑が本郷の東京大学医学部構内にある。


「常山紀談」には、佐賀の大名関係として、龍造寺隆信の戦死と島原の乱での先陣争いの件が載っている


「あやつり」と呼ばれるあやつり人形芝居の徒が佐賀藩にはおり、宝暦期には、唐人町座、神埼座、材木町座、崎村座の四座があって、巡業していたという。元禄3年には多久専称寺本堂建立の資金調達に、あやつりを呼ぼうと計画した記事があり、また、蓮池藩領の嬉野や塩田では町場の賑わいにあやつり芝居がよく興行されたという記事がある。また、佐賀藩には竹田のあやつりなど旅芸人も入っていたという。以上は「西南地域史研究」第12輯所収の、中村久子氏「肥前多久領の芸能」による。あやつり人形とは浄瑠璃に合わせ操作する人形のことである。


大崎八幡宮に奉納されている大副石炭山の有様が描かれた絵馬は、慶応元年に描かれたものである。当時の大副石炭山は文久3年に新坑が開かれ、慶応3年に閉められた石炭山だった。