吉良上野介と鍋島光茂はいとこの間柄

「基肄養父実記」(鳥栖市史資料編第二集)に、田代領代官賀島兵介が、大酒を飲むと出費多く、病気などで身を破り、煙草は大きい害はないが、損あって益がないため、しかしながら、これらを禁じることはできないので、今後は大酒にならぬよう、煙草は吸わないにこしたことはないと指示したとある。これにより、20歳以下の者が煙草を吸うことはなくなったとある。これに限らず、江戸時代にあっても、一定年齢以下の者の喫煙には制限があったようである。これは当時の琉球王国にあっても同様のようである。(真栄平房昭氏「煙草をめぐる琉球社会史」(安良城盛昭先生追悼論集「新しい琉球史像」榕樹社 1996年)
「基肄養父実記」では、17世紀後半の田代領では、身代困窮した者は、妻を売って身代銀を取り、その妻が7年間、下女となっても身請けしようともしないという状況があったという。また、身売りを拒み離縁となった場合は、妻の親から銀を取ったり、借銀の半分か3分の1を妻の親に負担させたという記述もある。


「エネルギー史研究」17号に、東定宣昌氏「明治前期、肥前松浦川の石炭輸送」がある。


「昔夢会筆記」(平凡社東洋文庫 1966年)は、渋沢栄一らが聞いた徳川慶喜の回顧談の記録である。この中の明治42年7月15日の聞き取りの中で、徳川慶喜(興山)は、三島毅の「肥前の閑叟も観望家のようで……」の問いかけに対し、「俗に言ったらこすい人、善く言えば利口才子ということだ。」と答え、更に、小林庄次郎の「その時分(慶応3年6月頃)肥前の態度は、薩長とも違いますし、どういうふうな態度でございましたか。」の問いに対し、「やはり今言うところの態度だ。下手なところへ顔を出さぬというふうの人だ。」と答えている。


葉隠」の中に、吉良上野介が鍋島光茂に対し、「御大身にても官位ひきく候ては、御不気味にてこれあるべく候、少将御免など候はゞ、知行半分どもには御替なさるべくや。」と言ったという記載がある。これに対し、鍋島光茂は、「官位ばかり結構に候ても、喰物なくてはならざる事なり。」と答えたという。
吉良上野介と鍋島光茂はいとこの間柄になる。