成定

「成定」とは特定の田畠に何年かを限って与えられる年貢の減免のこと。城島正祥氏「佐賀藩における知行の切地と上支配・銀主支配」(「法制史研究」23 1974年)による。


相知町教育委員会「峯家文書解読書」(一)には、口絵に所収史料の一部の写真が載せてある。
これによると、藩主褒状(P52)の「在世」は「存生」と書いてあるように見える。その他2点が解読文と異なるが、この写真はP52と同一のものではないのだろうか?もし、そうだとすれば、これに見合いの解読文がないことになるのだが。


吉田松陰は嘉永3年に佐賀を訪れた。ときに松陰20歳。


下村湖人が昭和29年に週刊朝日に載せた回想。「佐賀県の歴史散歩」(山川出版社 1975年)からの孫引き。
「春さき、北の方の山に登って見ると、ナタネの黄色と、麦の青緑が半々に見えた。川岸に密生した蘆は、春おそく小指大のとがった芽を出し、その間に赤い小さなザリガニがはい出した。夏は夜どおしカエルの声が絶えない。秋になると、蘆の花が真白に咲き、ざわざわと羽音をたて、堤にならんだハゼの木が紅葉し、柿の実が色づく。」
佐賀平野のすばらしい描写である。


肥前一の宮河上神社拝殿には副島種臣の筆の「火国鎮守」の額がある。


伊万里県初代権令は山岡鉄舟。二代は多久茂族。ここで伊万里県は佐賀県となった。


六府方は山方、里山方、搦方、牧方、陶器方で天明3年に設けられた。その後寛政の頃、貸付方、講方が加わったとされている。